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 「あやめ」と「かきつばた」を手にできる人がいれば、とても幸せなことかもしれません。
『 いずれあやめか、かきつばた』という言葉があるように日本では「美の象徴」として扱われています。今回の記事についてもカラヤンの恋愛や女性観を書く気はありません。

 

 一部を除くと指揮者は大体ストイックな感じがします。もちろん艶福家もいますし、もともともてる職業です。フルトヴェングラーの女性関係はかなり華やかで子供もたくさんいました。トスカニーニも女性歌手にすぐに手を出す始末。イタリアの種馬と言われたとか・・・また、シャルル・ミュンシュは社交界において彼のフランス的ウィットでアメリカマダム達を魅了しましたし、比較的新しいところではズビン・メータがロスアンジェルス時代に人気を博し、彼のマッチョな体を観にコンサートホールにお出ましする女性客がいたおかげで、定期会員が飛躍的に伸びたともいわれています。

 

 もちろん日本においての山田耕筰みたいに合唱団のほとんどの女性が彼のお手つきだったということもあり、一部には『芸術家らしい?』人もいたわけですが、ソリストと比較すると指揮者という人たちは、表面的には案外無茶な人はは少ないようです。しかし山田に限ってはパワハラの香りがしないでもないですね。

 

 但し離婚をする率はそれなりにあったようですね。

 

 アーヘン時代にはこの地で知り合い結婚した元オペラ歌手の妻エルミー・ホーガレフがいました(1938年結婚)し、ベルリンの社交の場において、ひとりのカリマス的な女性と出会い惹かれ合うようになっています。大実業家の一族の娘で、ユダヤの血筋をクォーター含むアニータ・ギュンターマンです。
 カラヤンはそのアニータを伴い同盟国のローマやミラノ・フィレンツェ、そして事実上の占領地であったビーシー政権下のパリでのコンサートへ赴いています(このことは『~その9~』でも記載しました)。

 

 デザイナーで画家でもあるエリエッテは3番目の妻です。

 

 小澤征爾さんも最初の妻は江戸京子さんでした。そして現在の妻がロシア貴族の血を1/4ひく入江美樹(小澤ベラ・イリーニ)さんです。

 

 前置きはここまでとして、本題はやはりオーケストラとの関係です。
 カラヤンの正妻ははなんといってもベルリンフィルです。34年間連れ添った正真正銘の妻です。それに対してウィーンフィルはあこがれの恋人でした。これは多くの評論家達が言っていることですし、実際にそうであったでしょう。

 

 まず、ベルリンフィルとの初顔合わせは1938年です。レコードでの初録音も同年に行っていますが、これはベルリンフィルでなくベルリン国立歌劇場oによる『魔笛』序曲です。
ベルリンフィルとの初録音はわかりますか。あの曲なんです。1939年の録音(4月15日)です。

 

そうチャイコフスキーの交響曲第6番です。

 

 録音はDGとです。ちなみに前年の11月にフルトヴェングラーも同曲をEMIで録音していて怒り心頭だったそうです。このレコード録音を重要な価値として理解はしているフルトヴェングラーも彼の音楽表現の中ではまるで価値ある音を出せませんでした。極端にスピードを上げると思えば無音部分を作る演奏スタイルは当時のレコードの中に入りきれなかったのです。どうしてもレコード用に演奏してしまうと、自分の表現とは異なった表現で収録しなかったからです。これはチェリビダッケも同様で、楽譜にない長い休止を盛り込むため、レコード録音を認めなかったのが実際のところです。

 

 今発売されはじめた膨大なCDはチェリの本意ではない中、発売されているわけです。

 

 1922年ニキシュの急死後、フルトヴェングラー(1886年生まれなので当時36歳)はベルリンのシェフについています。その時の対抗馬はブルーノワルターでした。積極的に運動をした(汚い手を目一杯使用して)フルトヴェングラーがポストについています。ワルターはベルリンとの関係をその後も続けますが、1936年にはナチの元から離れウィーン国立歌劇場の音楽監督になっています。それも1939年までで、ドイツの手が伸びるとユダヤ人である彼は米国に亡命します。

 

 1938年52歳になったフルトヴェングラーは30歳のカラヤンをベルリンフィルから遠ざける手段を取りました。本当に優れた人間は最も嫌な(あるいは怖い)相手を自分の中に取り込むことを選びますが、小心者の彼は遠ざける方法をとります。彼が常に政治的意味をわからず行動しているのはまさにこのあたりの「感覚のにぶさ」に他ありません。

 

 トスカニーニやワルターといった真の巨匠とはやはり少し人間が異なっていたようです。フルトヴェングラーは「巨匠」ではなく「偉大な職人」だったと言うべきでしょうか。

 

 ベルリン進出を果たそうとしたカラヤンはこの時期、運の悪い(いや、後年考えると運が良かったのかもしれません)ことを起こしてしまいました。1939年ベルリン州立(国立)歌劇場「ニュルンベルグのマイスタージンガー」上演での出来事です。ハンスザックスを歌うルドルフ・ボッケルマンが歌い出す場所を間違えたのです。この日ヒトラーが観劇していました。ヒトラーはこの曲を最初から最後まで「空で歌える」ぐらいこの曲が好きで、このミスを暗譜で指揮するカラヤンの責任と勘違いしました。

 

 そのため、カラヤンは彼から嫌われ、ベルリンで主要な所では演奏できなくなりました。もちろんこれにはフルトヴェングラーと彼を影で支えるゲッベルスがいたためですが、カラヤンは完全に干されることになりました。しかし、『人間万事塞翁が午(馬)』とは言ったもので、戦後になり比較的早く楽壇復帰を果たしました。

 

 1940年、カラヤンは作曲者の前で『エレクトラ』を指揮しました。場所は州立歌劇場です。
Rシュトラウスはこのとき「生涯最高のエレクトラを聴いた」とカラヤンを褒めたようですが、実際はそんなレヴェルでなく、まだまだ問題があったようでした。そこから、カラヤンのリヒャルト通いが始まります。この時の詳細ついては、しばらく後の『~その12~』に譲ることにします。

 

 2年後、やっとカラヤンはベルリンフィルとの録音にこぎつけました。曲はヨハンの『芸術家の生活』、ドヴォルザークの『新世界から』、そしてスメタナの『モルダウ』です。

 

 カラヤンはこの後、ベルリンフィルを振ることはフルトヴェングラーの最晩年までありません。

 

 ではウィーンフィルはというと国立歌劇場の方を1937年『トリスタンとイゾルデ』でデビューしています。正式デビューは1946年1月のことです(1934年に実際はウィーンフィルと演奏していますが、本格的な演奏は戦後になってからです)。
その後は連合国のソビエト、米国から指揮活動を止められ、戦後活動が自由になるとフルトヴェングラーに閉ざされる結果となりました。

 

 結局、フルトヴェングラーの死後、米国公演の成功によって1955年にベルリンフィルの芸術監督と終身指揮者を、1956年にウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任することになりました。一度決めたらとことんついてくるドイツ女性とは34年間ともにしますが、浮気性のウィーン女性とは1964年までしか続きませんでした。その後の喧嘩別れは1976年に和解するまでごたごたした関係になりました。