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 フルトヴェングラーが没した後、カラヤンと並び称された指揮者はカールベームでした。

 

 60年代後半~70年代前半は『カラヤンのベルリンフィルVSベームのウィーンフィル』という構図になっていました。ベームは1894年生まれで1908年生まれのカラヤンよりは14歳年上になります。彼はカール・ムックに見いだされ、ブルーノ ワルターの薫陶を受けモーツァルト指揮者ととしてその腕をふるいました。
ベームは次のことを言っています。「ワルターと出会わなければ、モーツァルトの真の出会いもなかったでしょう」
 また、Rシュトラウスとは交友があり、1938年(ベーム44歳、Rシュトラウス74歳)の時に献呈を受けたオペラ『ダフネ』の初演をおこなっています。
 また、同じく、アルバン・ベルクについても同様で、ベームが指揮する『ヴォツェック』をベルク本人がたいそう気に入り、交友は亡くなるまで続きました。

 

 カラヤンもRシュトラウスを大変に得意なレパートリーにしていますが、ベーム同様カラヤンもRシュトラウスから薫陶を受けています。その意味では2人とも、マーラーに対するワルターに似たような状況であったかもしれません。

 

 カラヤンは性格的にも相手にへりくだることができない性格ですし、積極的に話題をふるタイプでもなかったようですが、リヒャルトからは彼の音楽に限らず指揮法なども学んだそうです。猜疑心を持っていたリヒャルトも二回り違う若き指揮者には惜しげもなく技術を伝えたそうです。相変わらずフルトヴェングラー及びナチ周辺の一部からは疎んじられていましたがこの期間力を蓄えていったようです。
 また、ベームも笑みをたたえながらしゃべり、交友関係も広かったことから、リヒャルト(音楽総帥)の紹介もあり、オーケストラ関係者にも慕われ、自然と客演が増えていったそうです。

 

 ポスト欲を感じさせないベームですが、1931~1934年までハンブルグ国立歌劇場の音楽監督、1934年に名門ドレスデン(ザクセン)国立歌劇場の音楽監督、1943年にはウィーン国立歌劇場の総監督にも就任しています(ウィーンフィルを最初に振ったのは1933年で39歳の時です)。ドイツ・オーストリア敗戦後(1945年5月)に連合軍から演奏活動停止命令を受けましたが、1947年に復帰し、1954年に2度目のウィーン国立歌劇場総監督に就任しています。
 そして、同年フルトヴェングラーが没したときも、ベルリンフィルの新しいシェフにベームの名前も挙がりました。

 

 しかし、カラヤンによりウィーンのポストを奪われてからは、特定のポストに就くことなくフリーの活動を続けました。
ベームファンにとっては、『好々爺ベーム』の演奏するものは何でも肯定的にとらえるのでしょうけど、中立的な立場の僕にとってはモーツァルトとRシュトラウスのオーソリティというところでしょうか。

 

 ベームが60年代を中心に録音したモーツァルトの交響曲全集(全46曲)がベームの偉業として残っています。ジェームズ・レヴァインのすばらしい演奏やアーノンクールの演奏もありますが、伝統的『ウィーン・スタイル』としてはこの演奏は素晴らしいものだと思います。特に1968年に録音された中期までの交響曲でベルリン・フィルのこういったカラヤン的な性格が大いに効果を上げています。その後カラヤンによってさらに無個性といってもよいところまで磨き上げられる前のベルリン・フィルの若々しい響きが、ベームの捉えた厳格なモーツァルト像とあいまって、とりわけ優れたものになっています。

 

 こういったベルリン・フィル的な特質は、晩年のウィーン・フィルとの録音と比べるとなおさらはっきりしてきます。ウィーン・フィルとのモーツァルト演奏のなかでも屈指の名演といえば交響曲29番、第38番、第39番ではないでしょうか。29番についてはその厳格なリズムを正確に演奏しています。
不動、不惑の音楽として揺るぎのないものとして仕上がっています。ウィーン・フィルも非常に美しい響きで答えていて音楽の味わいを出しています。どちらかというと、ベームの演奏は直線的、言い方を変えると硬直的なものですが、それに対し、ウィーン・フィルが曲線的、ある意味いい加減に対応してバランスの良い味を出しています。

 

 カラヤンが『完成度』を追求していく演奏に対し、ベームは案外鷹揚に構えた演奏として仕上げています。これが、晩年の70年代後半になると指揮棒の振りが遅くなり、非常にかったるい演奏になっていくのです(コロンビア交響楽団を録音したワルターも同様です)が、60年代までのベームの演奏はカラヤンの『人工的完成美』に対し、『いぶし銀』の音を作りをしています。ベームのモーツァルトは威厳を感じさせます。

 

 録音で何気なく聴くベームのモーツァルトはどこか泥臭さの残るものですが、『古典的な普遍性の美』を兼ね備えているように感じます。
 ベームを崇拝者する指揮者の一人にカルロス・クライバーがいます。彼の父エーリッヒ・クライバーはウィーン国立歌劇場のポストにからんではベームの仇敵でしたが、ナチが政権を担うと、ドイツ文化圏をさっさと南米に旅立ちます。戦後、ドイツに戻ろうとしますが、ドイツ国民からは総スカンを食い、まともな活動にはなりませんでした。

 

 息子はそんな事情も「どこ吹く風」で、ベートーヴェンの交響曲第7番、第4番を振る(録音もする)と、次には『第9番』に焦点を絞っていました。楽友協会でウィーンフィルと録音セッションを続けるベームの練習に通いました。しかし、カルロスは結局彼の生涯で『第九』を振ることなく幕を閉じました。その代わりに第6番『田園』の演奏を行いました。彼がなぜ『第九』を演奏しなかったかは、その言葉を残さずにいます。

 

 カラヤンとベームは同じ時代に同じ場所、同じ演目を展開しましたが、決して相反する関係ではありませんでした。ただ、1954年に得たウィーン国立歌劇場総監督のポストをカラヤンに奪われたことで、ベーム自身の心情の中でわだかまりがあったかもしれませんが、少なくともそれを表に出すようなことはありませんでした。

 

 ベームは1963年、1975年、1977年、1980年の4回来日しています。ウィーンフィルとの初来日はベーム自身が2回目の来日の1975年のことでした。その時の演目は以下のとおりです。
ベーム初来日時の演目
●3月16日 NHKホール
君が代(日本国歌)
Land der Berge,Land am Strome(オーストリア国歌)
ベートーヴェン/交響曲第4番
ベートーヴェン/交響曲第7番
JシュトラウスⅡ/美しく青きドナウ(アンコール)
●3月17日 NHKホール
ベートーヴェン/レオノーレ第3番
ストラヴィンスキー/バレエ組曲「火の鳥」
ブラームス/交響曲第1番
JシュトラウスⅡ/美しく青きドナウ(アンコール)
●3月19日 NHKホール
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
シューベルト/交響曲第8番「グレイト」
ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲(アンコール)
●3月20日 NHKホール
ベートーヴェン/交響曲第4番
ベートーヴェン/交響曲第7番
●3月22日 NHKホール
ベートーヴェン/レオノーレ第3番
ストラヴィンスキー/火の鳥、組曲
ブラームス/交響曲第1番
ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲(アンコール)
●3月23日 NHKホール
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
シューベルト/交響曲第8番「グレイト」
●3月25日 NHKホール
モーツァルト/交響曲第41番
JシュトラウスⅡ/南国のばら
JシュトラウスⅡ/アンネン・ポルカ
JシュトラウスⅡ/皇帝円舞曲
JシュトラウスⅡ/常動曲
JシュトラウスⅡ&ヨゼフ・シュトラウス/ピッツィカート・ポルカ
JシュトラウスⅡ/こうもり、序曲
JシュトラウスⅡ/トリッチ・トラッチ・ポルカ(アンコール)
ワーグナー/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲(アンコール)

 

 63年にベルリンドイツオペラと来日したときは、まだフルトヴェングラーに加えトスカニーニやワルターの影響もあって、ベームは無名に近い存在でした。この時の演奏で一挙に信者が増え、75年の時はウィーンフィルを引き連れたこともあり、カラヤン並みの人気となっていました。日本人はもともと老人指揮者に愛着を示す傾向にあったことからも人気を博しました。海外においてももちろん、ベームを正統派指揮者として人気がありましたが、ヴィジュアル的に華がないのと音に派手さあるいはカリスマ性がないことから、81年の没後はもうひとつの存在になってしまいました。2000年に『レコード芸術』で評論家やファンを交えて行われた「20世紀最大の指揮者は誰か」という投票で以下の結果となりました。日本ならではかもしれませんが・・・

 

 1 ウィルヘルム・フルトヴェングラー
 2 ヘルベルト・フォン・カラヤン
 3 アルトゥーロ・トスカニーニ
 4 レナード・バーンスタイン
 5 ブルーノ・ワルター
 6 カール・ベーム
 7 ピエール・ブーレーズ
 8 カルロス・クライバー
 9 ハンス・クナッパーツブッシュ
10 エフゲニ・ムラヴィンスキー

 

 やはり、日本では「ウィーンフィル=ベーム」ということもあり、かなりの人気です。海外ならこうはいかなかったでしょう。

 

 さて、ベームの初録音はというと1935年まで遡ります。この時の作品は小品でしたが、翌1936年にはなんと史上初のハース版によりブルックナーの交響曲第4番と第5番を録音しています。片面に4~5分しか収録出来なかったSP時代としては大変な快挙です。この演奏ドレスデン(ザクセン)国立歌劇場oで行っていますが、チャンスがあれば、是非聴いてみてください。
戦後になり、連合軍側からベームに加え、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウス、カラヤンなどが演奏活動停止命令を受けています。

 

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 復帰後すぐ、ベームは古巣のドレスデンからの総監督の依頼もありましたが、すぐに断っています。しかし、1954年に2度目のウィーン国立歌劇場総監督の話を受けています。この時の心情として「廃墟と化したウィーンの輝きを取り戻したかった」とベームは述べていました。
 さらに、68歳でこの世を去ったフルトヴェングラー時代以後、ベルリン・フィルの常任の候補にもなったベームはすでに60歳になっていて、その任はかなわないと考え、早々に候補から抜けました。若く権力欲のあるカラヤンと戦後の大変な時期を助けていたチェリビダッケの二人が最終候補が絞られ、結局カラヤンが選ばれることになりました。
 1955年に再建されたウィーン国立歌劇場で、ベームは『フィデリオ』『ドン・ショヴァンニ』『ヴォツェック』『影のない女』の4作品を指揮しました。
 この再建記念フェスティバルの出演者は彼以外に、クナッパツブッシュ、ワルター、ライナー、クーベリックらでした。

 

 翌1956年に米国の!!シカゴ交響楽団の客演から帰ったベームは、ウィーンで『フィデリオ』を上演しましたが、生涯唯一と言っていいほどの大ブーイングを浴びせられました。大事な要職にありながら、客演ばかりしていたベームに対するウィーンっ子からの『しっぺ返し』だと言われています。本当のところは、新たなスターヘルベルト・フォン・カラヤンを求めてのものだと伝わっています。