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 まずはカラヤン「生誕100年」をお祝い申し上げます。
 彼の功績、いわゆるクラシックファンを増やしたことが何よりものことだと考えています。

 カラヤン生誕100年。本日がその100年です。仲の良い一部のブログ友人には今回のこの企画の意義をお話ししました。
 今回僕がカラヤンの記事を書き続けていることは、カラヤンを強く尊敬していることもありますけど、歴史の1ページを僕自信が担いたいと思っているからです。このブログというものを考える中で、この記録が世界中に発信されている事実があるからです。

 日本語を理解してさえいれば、地球の裏にあるブエノスアイレスであろうが、イスタンブールでも見ることができます。
そして、yahooブログが続いていれば、この記録は後年の人間が見ることが出来ます。そして将来文化人類学の研究を行ったときに、「カラヤン研究」をおこなう人間がいた時、当時の民衆が彼をどのように思っていたのだろうという研究をおこなう人が出たとしたら、その中にこのブログそのものが対象になるかもしれないと認識しています。

 

 そして、『~その4~』でも書きましたが、カラヤンはそのことを意識したからこそ「映像」に対して興味を示していたのだと思います。ナルシストと言われれば、それまでですが、例えば、「本能寺の変」が生じたときの本能寺がどういう建物だったかわかる人はいるでしょうか。出雲大社の建物がどういうものだったか知っている人がいるでしょうか。

 

 両方とも本当のものはわかりません。特に本能寺は映画やテレビなどで放映されていて、我々にイメージを与えていますが、実際はあのような壁はなく無防備だったといわれていますし、光秀の装備もあれほどおおがかりではなかったとも言われています。
真実を残すためには、『形』として残さなくてはならないということはカラヤンは認識していたのだと思います。

 

 カラヤンは1984年のあるインタビュー(聞き手は黒田恭一さん)で次のことを言っています。

 

(原文のまま)
 「もしわたしが演奏会で指揮して、その演奏会がテレビで中継し、全世界で放映されたとしましょう。そうしますとそのときの演奏は数え切れなほどのたくさんの人によって聴かれます。その数は、私が寿命の2倍生きたとして、毎日毎日同じプログラムでほぼ80年間演奏し続けたときに聴く聴衆の数と同じになります。
このことをもとにいえるのは、わたしたちは新しい時代に生きていて新しい時代に合致した生き方が求められているということです。

 音楽の美しさが発見され、それにともなって技術にも進歩が見られ、その結果、今日では、世界中のあらゆるところで音楽を鑑賞できるようになりました。まず必要なのは、理念です。理念があって初めて、わたしたちはそれが実現されたものをみることができるのです。聴きたいと望む気持ちがあることが肝心です。」(略)

 

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 カラヤンの音楽については、評論家側の意見はマスメディアから多く出されますが、晩年のマエストロから語られることはとてもめずらしいことです。日本びいきのマエストロであることから『日本発』で出てきています。この時期『ザビーネ・マイヤー問題』と『健康問題』が発展して、カラヤン帝国にも陰りが見え始めた頃でした。ベルリンフィルでの絶対権力者についても、西ドイツ本国のジャーナリズムからも彼の音楽論について、その反対に属するフルトヴェングラーやチェリビダッケ音楽擁護が目立ち出し始めました。

 

 特に、ベルリンフィルシェフのカラヤン後については、小澤、バレンボイム、アバド、テンシュテットのといったカラヤン系列の指揮者が名前が上がっている中に、チェリビダッケ、バーンスタインといった常任指揮者に就任することがありえないカラヤンとライバル関係にある指揮者がシェフに就くことを意識的にあげるメディアも出てきました。

 

 その中でカラヤンは遠く離れたヨーロッパ大陸から離れた場所から、自分の掲げる音楽を表明した言葉として非常に重要な位置づけになりました。結局、カラヤンはこの来日後、サントリーホールこけら落としの86年はキャンセル、88年に来日していますが、その際はコンサートも大曲を演奏せず、比較的小品と最も得意とした音楽だけで、インタビューも非常に一般的なものでカラヤンの本質を自分の口で語ることはありませんでした。

 

 カラヤンはこの音楽を非常に「開かれたもの」にしたいということを切に願っており、『音楽の記録』がどういうものかも理解していたと思います。特にナチによって音楽がどのようにゆがめられたかも極めて近いところで「外から」見ていたことなので認識しています。
 そのために、真に政治的な利用を音楽でしてこなかった指揮者です。反面、その『芸術性』『大衆性』を意識し、傾注し、それらの二者をきちんとつなげる試みをしています。

 

 戦後の楽壇で、フルトヴェングラーは以下のことを述べています。

 

 「奴(カラヤン)の音楽は『精神性』に欠けると思わないか?(フルトヴェングラーは決して自分から否定後を使用しません。批判するときは必ず相手側に同意を求めるような聞き方をします。これがフルトヴェングラーの「優柔不断」たる所以です。)しかし、奴はレコード録音の音がどのように一般受けするかの術(すべ)は、よく心得ているようだ。わたしにはあのような録音ができない」

 

 まあ、フルトヴェングラーとのこれ以降の確執は『その24』に置くとして、カラヤンの音楽に対するあり方はこの言葉だけでもわかるのではないでしょうか。

 

 さらに新たな聴衆を求める質問とカラヤンの返答を記載します。

 

黒田「音楽に触れるプロセスは昔と異なっていると思います(これは昔は『生演奏』で接するということを言ったものです)。『軽騎兵』序曲を聴く今の日本の小学生たちは実際のコンサートでオーケストラによって演奏にふれる前に、まずレコードでその音楽に接し、その後にあらためてコンサートで聴くという過程をふみます。その点の変化といったような考えはないでしょうか。
カラヤン「わたしはそうは考えていません。音楽を聴けば、子供は、その音楽がどのようになされているのかを尋ねるでしょう。尋ねられたら、そこで、先生なり、両親なりが、説明し、音楽家が演奏しているところを写した写真を見せれば、子供は納得するに違いありません。しかも現代では、テレビなどもあることですから、子供たちは、音楽を聴きながら、同時に音楽家達の演奏中の姿も見られるようになりました。その点からも、昔と大差ないと思います。

 

 このことがカラヤンの音楽伝達の本質であり、それを理解させるための音楽がどうかということをずっと試行していたのだと思います。哲学については、『~その16~』をはじめ、また先に記載することにします。