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今年のサイトウキネンを松本に聴きに行った。日程は9月11日(月)で9日以来の2回目の演奏。
午後4時過ぎに松本に到着し、終演後またクルマで返すという状況。行きは左手に富士山の姿を見ながらとばした。速度はここでは書けない。

 

相変わらず、松本は美しい町だ。決して都会ではないが非常に落ち着いている。

 

今回のチケット入手がも大変だった。小澤さんが演奏するか否かは賭けだったが、久しぶりの登場ということで、なかなか電話がつながらなかった(ネットもオーバーワーク・・・)。

 

さて演奏ね。曲目は武満さんの「ディスタンス」。ベートーヴェンのピアノコンチェルト5番。そしてショスタコの革命。
ゲネプロの一般客への公開のうわさを聞いていたので、解釈はなんとなく予想がついた。

ディスタンスは文字どおり「距離」という意味だがオーボエが舞台中央の一番前、笙は舞台中央の一番奥に、2人離れて縦にならんでの演奏と変わった配置での演奏。武満さんそのものの作曲はメロディーメーカーではないので音楽を追うよりも、演出に意識を集中した。オーボエと笙のコンビネーションというのはいかにも違和感があり、このディスタンスというのは単に配置というよりも、楽器、演奏としての「距離」も意味しているのではないかと感じた。決して不協和音を出しているわけではないが、なんとなく旋律に適当な心地悪さ?があるものだった。

そして、オーケストラが登場、内田光子さんとのベートーヴェンピアノ協奏曲第5番「皇帝」。小澤=内田は以前にもベートーヴェンのコンチェルトを聴いたことがある。内田さんはモーツァルトとベートーヴェンを弾くときはがらりと音を変えてしまう。

小澤さんの皇帝は音源としてはテラークのルドルフ・ゼルキンとの演奏があり、これを比較して聴こうとしたが、まったく演奏が異なる。参考にするとすれば、アルゲリッチと4番をバイエルン放送soとやったDVDに近いものだと考えた方がいい。

内田さんがあれだけあおるとは思わなかった。いずれ、FMかテレビでも放映すると思うので是非ごらんになっていただきたい。非常に自発性のあるピアノをオケにはめこんでいっている。コンチェルトをやらせるとやはり小澤さんはすごい。ピアノのどのテンポ、どの大きさの音にもピタリとオーケストラをつけていく。

圧巻は2楽章から3楽章へのつながり、その後のピアノの追い込みだ。「速い」という感覚でなく「強い」という感覚。オーケストラもすごい。演奏家の皆さんの耳のよさもそうだが、きちっと合わせる術がいい。特にオーケストラの中に桐朋学園の現役の学生も含まれており(プログラム確認)、すでに高いレベルで演奏をしているのには驚きだ。

もっと驚きなのは、内田さんが平然と弾ききっていることだ。やはりピアニストが主役なのを再認識してしまった。

休憩後はショスタコーヴィチ交響曲第5番。1楽章の冒頭は予想通り息の詰まる重々しい解釈ではなく、余裕をもった弦だった。ロシアの指揮者に慣れた人が聴かれると「えぇ~」となりそうなスタイルだった。まあ小澤さんですから・・・

やはり2楽章はとても柔軟に対応していた。こういうのをやらせると小澤征爾という指揮者はうまい。モダンさをきちっと引き出していた。金管も重くなく(外人部隊・・・)、非常に軽やかな演奏。ならば、1楽章はもっと重くしたほうが対比できるのではとも思う。

純粋音楽として楽しむと小澤の解釈はいい。戦争や革命を引きずった解釈をすると間違いなく落第点になるのだろうが、僕自身は小澤的解釈のほうが好感が持てる。

3楽章はショスタコービッチの数ある旋律の中でも最も美しい旋律の演奏だ。かつて共産党の「あじ演説」と酷評されたこともある音楽だが、作曲家ショスタコービッチとしてみた場合、この旋律はやはり異彩を放っている。その際もテンポをどう設定するかによって行間を読み取る必要があるのだが・・

4楽章。関西人ならみんな知っているドラマ「部長刑事」のテーマ(昭和生まれ限定)。冒頭の木管と打楽器のテンポをどう処理するかで、この音楽をどう捉えているかがわかる。
とにかくバーンスタイン盤(古いNYP盤59年)が滅法よい(個人的には)。打楽器と金管をゆっくり動かされると思いっきりしらけてしまう。小澤さんは、今回の演奏でゆっくりめのテンポで入っている。スピーディーに奏でて欲しい。バーンスタインと同じ解釈をする指揮者はいない。ストコフスキーが一番レニーに近いかもしれない。

小澤さんとしては非常にめずらしく重い演奏。こんなテンポで演奏するとは思わなかった。まあ、まともに演奏し、終曲コーダ部分に演奏の間違いがなければ、誰が演奏しようとも「ブラボー」なわけだが、僕の中ではこのショスタコの曲は3楽章で終わっているのだ。小澤さんとしては従来のスタイルを完全に変えたものだ。スラヴァの演奏を聴いて、あまりのすごさに「この曲は演奏できない」と言ったそうだが、レニースタイルでなくスラヴァスタイルの演奏だった・・・
今回も演奏終了と同時に「ブラボーの嵐」。ははは・・・やっぱり・・・

演奏スタイルが自分の予想と反してしまって、うっすらと醒めてしまった。もしかしたら、僕はこの曲がホントに好きではないのかもしれないと思う瞬間がある。打楽器の最後の一撃が終わったところで、またなにか言い表せない不安な気持ちになってしまった。熱を上げた!!他の観衆とは別の意識の人間がここにいる。別に小澤さんの解釈は特別どうこういうものではなかった。整然とし作り上げ、完全燃焼させた演奏だ。観衆は皆楽しんでいた。コーダのヴァイオリン群の凄味は半端なものではなかったし。
演奏に文句を付けているわけではないが・・

とにかく高水準の演奏だった。
純粋に「音のすごさ」を感じてしまった。どちらかの演奏が録音され、来年の今頃には販売されるだろう。
「皇帝」が録音され販売されることを祈るがレコード契約がどうだろう。小澤のショスタコは初めて聴くのでレパートリーとしては重要だが、プロコフィエフ(BPO)ほどの愛着はなぜかわかないのだ。

 

さて夜の10時には僕はクルマのハンドルを握っていた。帰りの中央高速で聴いたCDはモーツァルトの「レクィエム」(ベーム盤)だった。なぜかこの曲を聴きたくなってしまったのだ・・・