恩人・吉村正さんに捧ぐ~長男誕生秘話①~ | 『あなたも私も大丈夫~届けたいのは根拠のない自信』 ♡母と子の幸せ応援団~ひなたぼっこ~浅井智子

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日々の子育てに心も体もお疲れモードになりがちなお母さんたち。自身も母として奮闘中の森のようちえん園長でもあり、心理カウンセラーの浅井智子が『あなたも、子どもも大丈夫♪自分を生きていいんだよ』のメッセージと共に、世界中のお母さんを応援します。

11月7日 長男坊を取り上げてくださった吉村正さんがお亡くなりになった。

不妊治療の末 結婚7年目にようやく授かった長男坊。

 

吉村先生のことは保育士の同僚が教えてくれて

彼の著書を読んで 産むならココ って決めていた。

 

不妊治療でお世話になったクリニックは不妊専門外来だったので

妊娠がわかったとき、先生にどこで産むの?と尋ねられた。

吉村先生の名前を出した途端、

だったら 早く行ってくれ・・・とばかりの対応だった。

 

吉村先生が産婦人科業界では異端視された存在だったことを

まざまざと感じた瞬間だった。

 

波乱万丈の人生を85歳で閉じられた吉村先生。

娘さんが手記を綴られた。

ご家族にしかわからない、ご苦労があったことがしのばれる。

https://tadashiyoshimura.jimdo.com/

 

 

でも、やっぱり吉村先生は日本の宝のおひとりだと私は思っている。

 

 

現在19歳の息子が授かった時のことを、

10年ほどの前に 別のブログで綴っていた。

 

そのブログは閉鎖されてしまったのだけど、

息子の出産秘話は残しておきたくてパソコンに保存しておいた。

 

どう生むか、は

どう生きるか。

 

長い長い長男誕生の物語。

吉村先生への鎮魂歌として捧ぐ。

 

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長男出産秘話全5回~岡崎・吉村医院での誕生~


我が家の10歳になる長男坊は、今でも
「僕が生まれたときの話を聞かせて」
とよくせがんでくる。
生まれたときのお話は、子ども達の寝る前に布団の中で語り聞かせる定番となっている。

わたし達夫婦は結婚して8年目にして長男坊を不妊治療の末授かっている。
待ちに待ちに待ちに・・・待ちに待った赤ちゃんというわけだ。

妊娠を知った友人が1冊の本を貸してくれた。
愛知県岡崎市で開業している産婦人科医・吉村正先生の著書だった。
多くの産婦人科で行なわれている医療介入の不自然なお産の怖さを知ると同時に、母親の生む力と子どもの生まれようとする力を発揮させてくれる、昔なら当たり前のお産、母親の主体的なお産を大事にしてくれる吉村医院でどうしても産んでみたいと感じた。

不妊治療でお世話になり、長男を授けてくれたクリニックの先生の悪口は言いたくないが、クリニックで妊娠検査薬で陽性反応が出たのを見た先生から言われた言葉は
「プラス反応出てるね」
だった。最後までおめでとうとは言ってもらえなかった。

「どこで産むの?」
と尋ねられ(このクリニックは婦人科専門で産科はなかった)
「岡崎の吉村医院を考えています。」
と答えると
「あそこで産むなら、さっさと行って。」
冷たく言い放たれた。
どうも、産婦人科医の中で吉村先生は異端視されているな・・・と感じた。

ますます 興味がわいてきて、吉村医院に脚を運ぶのが楽しみになった。

初めて吉村医院で吉村先生にお会いした時のことは
今でもよく覚えている。

医者候の白衣なんて着ていない。
紺色の作務衣が良く似合っいて、待望の赤ちゃんであることを告げると初対面とは思えないほど、「おめでとう!!」と喜んでくださった。
そして、たくさんの妊婦さんが診察を待ってみえるのに、お産論を語ってくださり、妊婦としての心構えを伝えてくださった。
「ここで産んで間違いない!!」
自分の目と耳と心で確信した私は、会計時に出産の予約申し込みを済ませた。

我が家の吉村医院物語の始まりだ。

 

 

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結婚して7年目に、ようやく私のお腹にやってきてくれた長男坊。

吉村医院で産むことを決めてから、周囲の反応は面白かった。

どこの病院で産むの?と聞かれるたびに、「岡崎の吉村医院」と答えると、大抵の人が、なんでわざわざ岡崎まで?と不思議そうな顔をした。

当時は、名古屋の守山に住んでいたから、電車にしても車にしても1時間以上かかる場所だった。

「近いから」・・・という当時の私にしてみたら、どうでもいいような理由で、ほとんどの妊婦さんが産院を決めることのほうが私には不思議だった。
吉村医院には全国から自然分娩を目指した妊婦さんたちが集まってくるから、同じ愛知県内の私は近い近いと思っていた。

中には「妊婦に蒔き割りとかさせる、あの吉村医院?」と、雑誌やテレビで得た情報から、変わった所で産むのねえ・・・と言いたげな顔で、「ともちゃんらしい選択ね」・・・という私をよく知る友人の反応もあった。


私には、どうしてもお産でこだわっていたことがあった。それは我が子の自ら生まれ出ようとする力を、最大限発揮させてあげたい・・・ということ。
このこだわりは、私自身の出生へのトラウマだったように思う。

母は、私を産む時にかなりの体重オーバーだったことが、母子手帳を読み返すとよくわかる。
そして、初産でもあったし、難産を極めた母は鉗子分娩による出産となった。

私はそのことを大人になってから知ったのだが、自分の最初の第一歩を、この世に誕生する貴重な最初の第一歩を、道具で引っ張り出されてきた・・・というのが、とても残念だった。
何だか、人生を生き抜いていく大切な力が、削がれたような気がしたからだ。

我が子には、この地上に誕生する瞬間に、自分の内からあふれ出る生まれ出ようとする、強い力を発揮させて誕生させてあげたい、医療行為は出来るだけ避けたいと固く決めていた。

そのためには 安産できるように母親の私の努力が必要だった。

まず、体重を増やさないように注意。
悪阻が割とあったので、妊娠初期は増えるどころか減っていく一方だったので体重管理はたやすかった。

逆子になっていると分かった時には、高くあげた腰をゴロンと横向きに勢いをつけて倒すことで、お腹の中で赤ちゃんがコロンと向きを変えられるように努力した。
もうお腹が大きくなってきたときだったから、この逆子体操は結構しんどかった。でも、努力の甲斐あって次の検診時には治っていた。

母親教室では医院長の吉村正先生から、妊婦生活の心得や、世の中のゆがんだお産事情の弊害、母子にとって、その家族にとって自然に出産することの、その後の人生に対する影響力の大きさについてしっかり学ぶ。

全員自己紹介しながらの質疑応答では、妊婦の色々な心配事を分かち合って、先生のお産論を共有しあって、医療介入を必要としないお産、楽しくって感動をいっぱい味わえるお産を仲間と共に目指す。

検診や母親教室のために岡崎まで通うのが、とても楽しみだった。吉村先生と吉村医院から、元気オーラをいっぱいもらえるからだ。

そうして、妊娠後期になって、吉村医院名物古屋をいよいよ経験することになった。

古屋・・・それはそれは 素敵な場所。

私達親子の出産物語を語るに欠かせない場所。

次回はいよいよ古屋についての物語・・・。

 

 

 

母と子の幸せ応援団 ひなたぼっこ 

浅井智子