2024年8月25日
「松山千春 ON THE RADIO」(2)

 

今日、8月27日は松山千春を見出し育てた恩師・竹田健二さんの48回目の命日。

 

ご存命であれば83歳。

 

8月25日放送の「松山千春 ON THE RADIO」では多くの時間を使って竹田さんを偲び思い出を語った(以下ボールド全文)。

 

この日も入院中の病院からSTVラジオに外出しての放送。かつてないほど体調が悪そうに感じたが、竹田さんの命日に際して、何としても語り残しておこうという松山千春の強い思いも感じた。

 

恩ある人を忘れない、称え、感謝を捧げ続ける松山千春らしい語りに、再びこちらの胸も熱くなった。

 

 

(竹田健二さんと写した唯一の写真/

松山千春写真集「激流」より)

 

(04:15~)
これ、8月ってな、俺がSTVラジオの竹田さん、っていうディレクター、最初に会ったのは、1975年3月、俺は1955年生まれですから、まだ二十歳になってないんだ。「フォーク音楽祭」っていうコンテストがあって、まず第一次予選、帯広。(…)そこで予選があって、それを通って第二次予選、そして北海道大会。今無くなってますけどね、中島スポーツセンター、ここで北海道大会が行われたわけだよ、1975年5月9日。(…)

 

8月27日、STVラジオのディレクターであった竹田さんの命日。いやぁ、考えたら、早かったわなぁ。俺がまだ二十歳の頃、竹田さんに「STVラジオで毎週二曲作って歌ってみないか」と言われるままに、毎週毎週二曲作って、足寄から札幌へ出て来ては歌って。その時には、自分はフォークシンガーだからプロになるとか、レコード、CDを出すとか、そんな気持ちはまったくなかったですね。ただ、竹田さんが「千春、毎週二曲だぞ」と言われるまま、歌っていたら「レコーディングをするぞ」「えっ?俺、レコーディングするんですか?」…竹田さんに連れられて東京のスタジオに行って。今思えば「ああ、これがレコーディングなんだな」…当時はまったく未経験、だったからなぁ。(…)

 

ただ、昭和52年8月8日、プロになって初めて札幌、北海道厚生年金会館。まぁ、今は無くなってしまいましたけどね。昭和52年8月8日、札幌。8月10日苫小牧、11日帯広、12日北見、17日室蘭、27日函館、31日釧路。10月旭川、11月東京厚生年金会館小ホール、この時初めて東京で歌わせてもらって。まぁ、ラジオはずうっとやらせていただいて。

 

で、8月27日、函館市民会館。竹田さんと待ち合わせて「一緒に行こう」。8月27日、待ってたら(STVに行ったら)竹田さんが亡くなった(と聞かされた)。「え?嘘だろ!俺は昨日の夜、竹田さんと電話して、明日函館、一緒に行きましょうね」(と言った。竹田さんは)「おう、久しぶりに千春の歌が、コンサートが聞けるんだ。楽しみだな」…

 

で、前の日、電話で話して。ところが8月27日、竹田さんが突然亡くなって。朝から竹田さんの家に行って、「竹田さん、どうしたんですか?函館、一緒に行く予定じゃないですか。俺はこれからどうすればいいんですか?コンサートはもちろん続けますが」…ほんとに慌ただしく時間が過ぎた。毎年、8月27日、この日が来ると胸が締めつけられ…。

 

竹田さん、あの時の松山千春は今でもラジオでしゃべってますよ。

(15:55~)
昭和52年、1977年1月25日、「旅立ち」という曲で松山千春はデビューしました。

 


(24:06~)
「旅立ち」でデビューして、二曲目(セカンドシングル)。次はどの曲にしようか?竹田さんと俺の中で思いは「銀の雨」、この曲でいこうか?そしたら竹田さんが「千春、待て。『旅立ち』そして『銀の雨』といったら方向性が決まってしまうだろう。そういう歌しか歌えないフォークシンガーになっちゃいけない」って言うんで、二曲目は「かざぐるま」という曲を出しました。竹田さん、間違いはなかったと思います。「かざぐるま」

 


(31:28~)
こうやって話していると、デビュー当時のことをいろいろ思い出すわなぁ。竹田さんが亡くなる前の日、8月26日、その夜にニッポン放送の方々と竹田さんは食事しながら、(ニッポン放送サイドから)「松山千春君をぜひオールナイトニッポンでしゃべらせてくれませんか?」…竹田さんは「ニッポン放送さんにお世話になるのはいいですけど、松山千春は東京へ行って芸能活動云々は一切できません。北海道にこだわりをもっている彼なので、東京で活動する気はありません。あくまでも北海道」…というわけで、今回も札幌からお届けしてますけど。

 

8月27日、竹田さんの命日、「かざぐるま」までは一緒にいろんなことを考えながら「千春、コンサート頑張れよ」「はい!」…先に、あまりにも早すぎる竹田さんの亡くなり方でした。ただ、オールナイトニッポン、それも二部ですよね。3時~5時か。(…)

 

ラジオはこれからも続けていきたいと思いますし、「旅立ち」「かざぐるま」そして「時のいたずら」、だんだんみんなも知っているような曲になってきたかもしれません。松山千春「時のいたずら」

 

 

 

(松山千春/写真集「激流」

竹田健二さん逝去のページから)

 

(47:50~)
北海道は足寄郡足寄町。まぁ、生まれた時から歌を歌って…そんな気になったことはなかったんですけど、いろんな条件が合致して今日(こんにち)があるんだと思います。

(51:27~)
まぁ、できれば元気で毎回松山千春オリジナルの番組であってもらいたいと思いますし、まぁ、元気なうちはこうやってしゃべってますから。みなさんこそ、お元気でいてもらいたいと思いますし。

長生きすることはいいことだと思います。そして、何よりも、目標、夢、何を糧に生き延びるのか。俺は、もっともっといい曲を生み出せるように、ギターを持って、いつでも「千春、歌ってくれ!」と言われたら歌えるような状態でありたいと思います。今回も最後まで聴いていただいてありがとうございます。

もちろん、毎週毎週頑張りますから、どうぞみなさんもいい歳の取り方をしていただきたいなと思います。友だちや周りの環境、いろいろ変わっていくことはありますが、「歌いたい!お前に向けて歌いたい!」っていう気持ちがいつまでもあると信じてますので。「千春、歌ってくれ!」と言われたら、いつでも歌えるようにしておきます。

 

毎週毎週この番組を聴いていただいてありがとうございます。また来週もこの時間、松山千春、しゃべってると思います。

松山千春「青春」という曲で今週はお別れします。ありがとうございました。

 

__

 

松山千春の自伝『足寄より』(169~170㌻)から

 

 

~急逝された竹田さんの亡骸の前から函館のコンサートに向かう~

 

 「じゃ竹田さん、俺、コンサートに行ってくるから」

 俺は立ちあがった。むっくりと竹田さんが起きあがってくるみたいな気がした。

 「千春、めし食ってるか?」

 「千春、声の調子はどうだ?」

 「千春、金あんのか?」

 竹田さんの口癖が聴こえてくるような気がした。(…)俺を支えて俺をここまで育ててくれた人が死んだんだ。

 「甘っちょろいこというな、この野郎。お前はプロなんだぞ」

 竹田さんの声が聞こえたような気がした。その声だけで俺はステージに上がったんだ。

__