ネットはなぜいつも揉めているのか
津田正太郎 著/ちくまプリマ―新書
2024年5月10日刊
◆著者
津田 正太郎(ツダ ショウタロウ) 1973年大阪府生まれ。慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所教授。1997年慶應義塾大学法学部政治学科卒業、2001年サセックス大学大学院(Media Studies, MA)修了、2003年慶應義塾大学大学院法学研究科単位取得退学。財団法人国際通信経済研究所、法政大学社会学部教授を経て現職。主な著作に『ナショナリズムとマスメディア――連帯と排除の相克』(勁草書房)、『メディアは社会を変えるのか――メディア社会論入門』(世界思想杜)などがある。
◆概要
日々起きる事件や出来事、問題発言をめぐって、ネットユーザーは毎日のように言い争っている。他人が許せないのは、対話が難しいのはなぜか。物事の見え方に違いが生まれるのはなぜなのか。背景にある社会やメディアのあり方を考える。
◆目次
第1章 「表現の自由」をめぐる闘争
第2章 ソーシャルメディアの曖昧さと「権力」
第3章 エコーチェンバーの崩壊と拡大する被害者意識
第4章 「不寛容な寛容社会」とマスメディア批判
第5章 二つの沈黙、二つの分断
終章 単純さと複雑さのせめぎ合い
◆書評
(朝日新聞2024年6月8日)
■不毛な争いだとわかっていても
書名を見て「何のこっちゃ」と思ったかたへ。
ネットでは、とくにX(旧ツイッター)では本当に、日々あちこちで盛大かつ不毛な口論が繰り広げられているのです。政治から芸能まで、ネタには事欠かない。なぜ君たちは(そして私たちは)いつも、もめているの? この大いなる謎に挑んだのが本書だ。
著者によれば、一つには、ネットのやりとりは記録に残るから。引っ込みがつかず、なあなあで終わらせにくいわけだ。徹底的にやり合って恨みを買っても、見ず知らずの相手なら気に病むこともない。30年前のパソコン通信の時代からけんかは日常だったという。
SNS特有の事情もある。世間様にもの申せば、知らない人にからまれたり、身元を特定されたりするかもしれない。リスクを承知で何か言う人には、極端な意見を持った極端な人も多い。
そしてXでは次から次に情報が流れてくる。意見が違う上に極端な人の、攻撃的で、明らかに常軌を逸した(としか自分には思えない)投稿も多い。そんなのが嫌でも目に入ってしまって、気分が悪くなる。
ひどいことばかり書きやがって。腹立つわぁ。ヤツらは加害者、ウチらは被害者だ。
お互いにこう思い込むようになると、妥協点を探る面倒な議論はもはや不可能。怒りと使命感にまかせた口論が始まり、延々続くというわけだ。
恥ずかしながら私のツイッター歴は17年。本書が解説するもめ事多発のしくみには、思い当たる節がたくさんある。
もう、うんざりしている……のだけれど。
米国のトランプ氏が支持者を集めたSNSを作ったものの、流行(はや)らなかったという。同じ思想の人ばかりで、平和すぎてつまらなかったからだと、著者は分析する。
つまり不毛なけんかを楽しむ人が、実はけっこういる。それもXの燃料らしいのだ。
情けないことに、これもそこそこ思い当たる。
評・小宮山亮磨(本社デジタル企画報道部記者)
◆読後所感
本書が刊行されてまだ2か月少々。内容詳細に触れることは避けるが、上の書評は本書で言わんとしていることの一端をよくまとめていると思う。
ひとつだけ。著者が本書の中で「間アプリ環境」という言葉を使っている。たとえばひとつの動画が比較的炎上しづらいインスタグラムのストーリー機能(投稿しても24時間で消える)を使ってアップロードされたとする。『ところが、それがツイッターやまとめサイトに転載されることで大きな炎上へと発展したのです。このように、近年の炎上は言わば「間アプリ環境」で発生しており、アプリ単体では完結しない点に特徴があると言えます。したがって、投稿者が「ツイッターのようなヤバいところに投稿しなければ大丈夫」と思っていても、予期せぬかたちで炎上の当事者となりうるのである』(本書66㌻)。つまり「間アプリ環境」があり、かつベースには「揉め事」「争い事」を好むユーザーが集まる場が存在する限り、炎上を防ぐことは不可能である、と。現代のネット社会を象徴している。