2024年6月9日
「松山千春 ON THE RADIO」(2)

 

フォークシンガー松山千春が生まれることとなった、ふたつのきっかけを語っていた。内容としてはこれまで何度も話してきたことだが、改めて原点を語る松山千春らしさに共感を覚えた。

 

今回新鮮に感じたのは、当時の関西フォークの中ではメロディは既にある楽曲のものを用い、そこに自分の詞を乗せて歌っていた、とのくだり。この点は関西フォークを語るうえで外せない点だと思っている。

 

大まかに言えば、アメリカから入って来たフォークソングを関東、関西ともに一旦は受け入れた面もあったが、特に関西はそこに自分たちのオリジナリティをより強く盛り込み、独自の世界を作り上げていった。

 

そうして作られた関西でのフォークソングの詞は反権力、反戦争、いわゆるプロテストが大きな特徴となっていく。ではなぜ、関西のフォークソングがそうした色を強めたのか。

 

その理由の一端を、無意識だと思うがこの日のラジオで松山千春が一言触れていた。いわゆる”庶民の町””関西”という土地柄が影響していることは間違いない。

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(17:50~)
大阪は、何と言っても関西フォーク。あの、関西フォークと関東フォーク、分かれるんですけどね。私は関西フォークの方、選んでしまいましてねぇ。関東フォークとは非常に仲が悪いんです。こればっかりはしょうがないなと思いますけどね。

関西フォークの代表的なグループ、赤い鳥「忘れていた朝」

 


(40:40~)
番組冒頭の方で言ったとおり、(俺は)関西フォーク、そっちの方へ。ちょうど70年代、もっと前だな、60年代からフォークソングってのが日本に入って来たわけよ。もちろん、アメリカから入って来たんだけど。そのフォークソングが関東へ行ったものと関西へ行ったものでは違ってくるんだ。いわゆる関東フォークっていうのは、当時アメリカでフォークソングをやっていたPPMとか、あとジョーン・バエズ。彼ら彼女たちの歌をそのままコピーしていく。関東フォークってのはだいたいそっち系でやってたんだ。

で、関西フォークはそういう入ってきたものを、例えば、メロディだけ使って、自分の言いたいことを詞にして歌ったりとか。で、終いには「いや、これだったら自分で曲作って、詞も作った方がいい」みたいなかたちになって、いわゆるシンガーソングライターというかたちになるんだけどな。

ま、関東もシンガーソングライターは当然出てくるんですけど、ちょっとこの肌合いが違うっていうかな。関東はどうしても奇麗な奇麗な感じで。関西フォークはちょっと、まぁ、人間味が出てくるというか、俺はそっちの方に憧れて、まぁ、とくに岡林信康はよく聴いてましたね。

 

(松山千春/母校足寄高校で)

 

もちろんそれも、うちの三軒隣りか?柚原さん、ねぇ、柚原良生(ゆはら よしたか)、俺の同級生な。良生が「千春、レコード聴かしちゃる」とか言ってね。「そうか」「これがフォークソングって言うんだぞ」「ん~、違うなぁ」みたいなね。


それから自分でも、その良生にギターを借りて、何とか弾けるようになって。小学校6年、中1、中2、もうそれぐらいでだいたいギターのコードをマスターして、歌えるようにもなってきた。そしたら、岡林の歌とか、加川良、今は亡き加川良の歌やなんかを。

高校の、いわゆる文化祭とかそういう時には、みんなが「千春、歌ってくれ、歌ってくれ」とか言うからね、「じゃぁ、歌うかぁ」とか言ってフォークソング(岡林信康「私たちの望むものは」)を歌って。それがやっぱりきっかけっちゃぁ、きっかけだろうなぁ。

 

みんながほんとにしーんとして、俺の拙いギターで、そしてそんなに音響も良くない中で、一生懸命自分なりに必死に歌ってた。そしたらほんとにシーンとした中で俺の声が通っていて。終わるとみんなばぁ~っと拍手をくれるわけだ。「いやぁ、この感覚、すごいなぁ」みたいなね。それがだんだん、病みつきになってと言うかな。(…)

 



(学校でバスケットボールの練習をやって)家に帰ってくると、ギター、良生から借りたギター弾きながら。で、自分で自分の歌を作ってみようか、みたいな感じになってな。で、いわゆるシンガーソングライターにはなったんだけど。やっぱり大きかったのはそこで良生からギターを教えてもらった。で、岡林、加川良の歌を歌えるようになった。(…)

そして高校を卒業して一年間、まず車の免許を取るのと、安くてもいいからギターを買おう。で、ギターを買って、曲を作り始めて。で、それが「旅立ち」という曲で、全国フォーク音楽祭の、まずは道東大会、そこで竹田さんと巡り会って。札幌大会そして北海道大会。俺はそこで予選落ちしてしまうんだけどな。

 

(竹田健二氏:後ろと松山千春)


竹田さんに「千春君、今度一緒にラジオやってみないかい?」という慰めの言葉をいただいて、足寄に帰ったんだけど。半年もして(実際には「約一年後」)竹田さんから連絡が来て、

「ラジオ、やろう」

「えっ?俺こんなしゃべりしかできませんよ」

「いや、そのままの千春君でいいから、やろう!」

って言って、(STVラジオ)日曜日のサンデージャンボスペシャルか?その中で毎週2曲、15分ぐらいくれたのかな?ということは、歌を歌ったり、しゃべったりしながら、それがまたきっかけとなって今日に至るんだけど。まさかその竹田さんがすぐに旅立たれるとはさすがに俺も思いもよらなかったな。現在もフォークシンガー松山千春です。

 

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松山千春「私たちの望むものは」(岡林信康カバー)