雪解けが始まっている富士山を見て幾つものことを連想した。学生時代夢中になって読んだ吉川英治氏の『宮本武蔵』。当時暗記した有名な一節は今も筆者を鼓舞する。「あれになろう、これに成ろうと焦心(あせ)るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ」。武蔵が弟子に言った言葉。若い頃よりも人生経験や思索を重ねた今こそその意味がよく分かる。人との比較は無益。生涯どこまで自分自身を磨き高め、深めていけるか。その絶対的な基軸で生きる。▶東京の青梅市に「吉川英治記念館」がある。1944年から9年5か月、氏が暮らしたその跡地に建てられ、直筆原稿や蔵書などの資料約1万1千4百点を所蔵している。筆者はここを2度訪問している。同館には氏の筆による「吾(われ)以外皆(みな)吾(わが)師」が掲げられている。生涯すべてのものから学び続けようという氏の人生観。▶氏は言う。「始終何か登攀を要する、あるいは逆境を如何によりよく生きて行こうか、という生活が始終、ぼくのコースになる」。だからこそ「どんな逆境におかれても希望の燈を持ちたい、同時に読者にあらしめたい」。筆者も一愛読者として、氏の作品に散りばめられた言葉たちにどれほど励まされ、どれほど涙したか。▶筆者が思う氏の最高傑作は『新・平家物語』。同書の最後では「復讐の瞋恚だけは、燃やすなよ。結果は、業の輪廻と、血の歯車を、地上に繰り返すにすぎぬ」と人の生命に巣食う業を断てと源義経に語らせている。全16巻の同書は「人おのおのの天分と、それの一生が世間で果たす、職やら使命の違いはどうも是非がない。が、その職になり切っている者は、すべて立派だ。なんの、人間として変わりがあろう」との市井の老夫婦の会話で終わる。氏の人生哲学が凝縮された言葉たち。吉川英治記念館、33年ぶりに訪問してみよう。(虹)2024.05.19-

 

(吉川英治記念館/同館ホームページ)