松山千春と長渕剛以外は歌とギターコードが一緒に湧いて来ないので、まず歌が湧いてネットで調べてPC画面にコードを映し出し、弾き語りした中島みゆきの「線路の外の風景」

 

弾き語りする分には、歌詞の意味を深く考えずにストロークの熱唱系でいける。

 

    


「線路の外の風景」

オリジナルアルバム『転生(TEN-SEI)』(2005年11月1日)収録

 

 

アルバム発売前年の12月8日に発売されたDVD/BD『夜会VOL.13「24時着 0時発」』に先行して収録(2曲目)されている。

 

と言うよりも、この『夜会』のいろんな場面で歌われた曲を集めたのがアルバム『転生』であり、「線路の外の風景」もそのうちの一曲。

 

 

「夜会VOL.13─24時着 0時発」は2004年1月3日~28日、渋谷・Bunkamuraシアターコクーンで上演された。


「線路の外の風景」、舞台では第1場、主人公の「あかり」(中島みゆき)が、アパートでミシンをかけているシーンで歌われている(以下写真2枚)。デザイナーを夢見ているあかりだが、いまだ夢は遠く、細々とした仕事をもらっては夜な夜なミシンがけをしている。

 

 

(中島みゆき/「夜会VOL.13」から)


ちなみにCDで聴くこの曲と、夜会の中でのヴォーカルとでは、声の艶、伸びやかさなどで夜会の方がいい。もちろん、どうあれ気に入っている曲の2つの表現の中での比較だけど。

 

「今」の「あたし」の「心」は見渡す限りの草原の中にいる。そこは線路から外れた、線路の外の風景。

かつて、決められたレールとルールに乗って、何事もなく一日が過ぎ去っていたあの頃。そのことは「あたし」にとっては不本意で、いつも苛立っていた。

決められたレールの上を、決められたルールのまま何も疑問を持たず素直に進んでいる周囲の女性たちが生ぬるく、あまっちょろく見えた。

あれから「あたし」自身の人生にもいろいろあり、紆余曲折を経た。

歳月が過ぎ、荒れ果てた地面の隙間に錆びて朽ち果てたレールが見えた。一瞬立ち止まったが、やっぱりそれは「あたし」が歩むべき道じゃないと、その先どうなっているのか確かめようともしなかった。

でも、ある夜、夢の中で思い出した。あれは「あたし」がずっと夢見て走ろうとしていたレールだった。そこにいたのは確かに当時の「あたし」だった。



 

問題は、今、線路から外れて、見渡す限り草原の中にいるような気持ちになっている「あたし」は幸せなのか。

後悔しているのか、満足しているのか―
茫然としているのか、決意しているのか―

上に書いた「夜会」でこの曲が歌われているシーンとシンクロさせれば、いずれも前者のような気がするが、歌だけ聴けば正直どっちにも取れるような気がする。しかし、私が捉えているのは後者。後者と思いたい。

紆余曲折の最中はきっと気持ちが幾度も行ったり来たり揺れたり、後悔もしたことだろう。でも、現在は今そこで満足し幸せを感じていると。

それぞれの世界に決められたレールがおぼろげながらあるもの。それに乗っていればともあれ安心できる。ある個別世界の中だけの、俗にいう「出世コース」などもそれだろう。

ではそれに乗れれば勝者で、乗れなければ敗者なのか。どこまでいっても相対的に、第三者がそう評価することもあるだろう。

でも、自分の人生のレールで考えれば、そうした相対的で表層的なことはちっぽけなこと。レールに乗れなかったからと言って、人間としてダメなわけはなく、尊厳性が損なわれるわけではまったくない。

問題は、どんな状況に置かれているとしても、傍から見れば最悪と言える中にあっても、そこで自分が満足し幸せを感じているかどうか。そこにしか絶対的な価値基準はない。

見渡す限り草原だけの線路からかなり外れたような所にいても、そこで「今」、充実感を持って生きている。「心」は広々とした草原の中にいるようで、「あたし」は幸せである。


「線路の外の風景」


なにごともなく一日が過ぎ去っていたあの頃は
苛立っていた 決められて歩くのが悔しかったんだ

なにも疑わずにレールを なにも違わずにレールを
ただ素直に進んでゆく娘たちが ぬるく見えた

あれから紆余曲折を経て 心は今どこにあるの
見渡す限り草原の中 ここは線路の外の風景
見渡す限り草原の中 ここは線路の外の風景

荒れ果てた地面のすきまに 朽ち果てたレールが寝ていた
そんなものあたしのじゃないと 行く先も確かめなかった

でも夜に思い出したんだ 夢の中思い出したんだ
あれはあたしの夢のレールだ 走ろうとしていたあたしだ

あれから紆余曲折を経て 心は今どこにあるの
見渡す限り草原の中 ここは線路の外の風景
見渡す限り草原の中 ここは線路の外の風景
見渡す限り草原の中
見渡す限り草原の中
見渡す限り草原の中