たとえば仕事では新しい企画を提案する際に、それが採用されなかったことを考えて、第二案、第三案を準備しておくのが常である。それらが第一案から多少変更を加え、規模縮小などを想定しても。所謂「保険をかける」。一方で、ここ一番、人生の勝負どころではむしろ保険はかけない方がいい。▶「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」―格闘家のアントニオ猪木さんが1990年2月10日、東京ドームでの試合直前の控室で、「もし負けたら?」と問うたレポーターを叱り飛ばした言葉。その試合は世代交代をかけての大一番だった。▶作家の吉川英治氏が著した名著「宮本武蔵」。一貫して精神の部分での二の手、三の手を考えない勝負に生きた人物として描かれている。吉川英治氏に言わせれば「(佐々木)小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった」(「同書」)。▶日本経済新聞のコラム「逆風順風」は、楽天・田中将大投手の活躍の理由を『(高校卒業後は)「プロ一本」と決めたところに宿る強さは二段構え、三段構えで、あれがだめならこれ、と保険をかけていては生まれないものだろう』と述べた(2023年10月26日)。さらにメジャーリーグ・大谷翔平選手の二刀流での大活躍の要因を「逃げず、(投手と打者)どちらもやり切る意志を保った。投打のどちらも保険にしなかった。常人の想像の及ばない強さが、そこにあった」(同)。▶大一番の勝負どころは筆者のみならず、大学院生と大学生の我が子らの人生にも訪れる。自分が望む進路を勝ち取るため、様々な場面を想定しての日々の努力は怠るまい。そのうえでいざひとつの勝負に臨んだ時には、落ちたらどうしよう、ダメだった時のためにこれも準備しようなどと考えるのではなく、何が何でも勝利することに覚悟を決め、そこに向けて精神を研ぎ澄ましていくこと。その時、それまでの努力が発揮される。▶筆者、我が子らにそうは言ったものの、二人の進路が気になって仕方ない。違う道も考えておいた方がいいんじゃないか?親というのはそういう心配をするものだ…。お前、そこに保険をかけるのか?…筆者の中のもう一人の筆者が詰め寄った矢先、それ押し退けて筆者に延髄斬りをかまして「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」―アントニオ猪木さんから怒鳴られた。(虹)2023.11.04-

 

吉川英治「宮本武蔵」(講談社)