2023年10月1日
「松山千春 ON THE RADIO」(2)
コンサート・ツアーのリハーサルが終わった後、TUBE前田亘輝と食事をしたことを話し、その流れで、TUBEデビュー30周年の際に、松山千春が作詞作曲してTUBEに提供した「この生命の限り」をかけた。
前田亘輝からこの曲を松山千春のステージで一緒に歌いたい、との申し出があったとのことで、松山千春が「やるとしたら東京(11月17日/東京国際フォーラム)か?」と言った。ここには私も参加するので「おっー!!」とときめいたが、一瞬で終わった。
その後、柏原芳恵がこの日誕生日ということで、これも松山千春が作詞作曲し柏原芳恵に提供した「タイニー・メモリー~小さな思い出~」(1983年)をかけた。
この辺りの松山千春の語りを以下に書き起こした(ボールド箇所)。また、その下に松山千春が歌う「タイニー・メモリー」(1983年Ver.と1986年Ver.)を挿入した。
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(06:16~)
リハーサル終わってからTUBEの前田(亘輝)と(…)食事をすることになりましてね。(…)いろんなことをしゃべりながら。(…)あれはね~、2015年だよな?8年前か。TUBEが30周年を迎えるんで、いろんな方々に、シンガーソングライターに曲を提供してもらって一枚のアルバムを作りたい、って言うんで。
(前田から)「千春さん、お願いできますか?」「おお、お前たちもう30周年か。それじゃ、前田が歌うようなそんな感じの歌を作ってやるよ」―作ってやったんだけど、俺と前田ってキー、音の高さは一音、半音かな?あいつの方が高いんだよ。だから俺は気を使って、半音上げて曲を吹き込んでやったわけだ。出来た時は「ありがとうございます!頑張りますから」って言ってたんだけど。
先週会った時にはさ
「千春さん、なんであんなにキー、高いんですか?」
「ばっか。お前に合わせたんじゃないか」
「できればどこかのコンサートで俺(前田)が出ていって、一緒にこの曲、歌いませんか?」
「お前、大丈夫かよ?」
「そのかわりキーは落として歌わせてください」
「じゃお前、やっぱり東京(東京国際フォーラム)か?」
って言ったらね、東京の時はね、11月17日か。16日、17日、18日となんかあいつ仕事が入っているんだってよ。
「東京はちょっと行けないんで、本当に残念なんですが」
「じゃお前次は福岡だぞ」
「あっ、それ20日ですね?ちょっと仕事、入っているんですよ」(以降他の地域の日程をすり合わせるも合わず)
「いや、けど、何としても一回ステージに上がって一緒に歌いたいんですよ」
「いや、お前が空いている日で、TUBEだっていろいろコンサートやるんだろ?俺は俺でスケジュール渡すから、大丈夫だなぁと思った時に来れば一緒にやることは全然構わないよ」
「千春さん、必ずどこかの会場で一緒に歌いましょう!」
とか言ってねぇ~、力入ってたけどねぇ。あいつ、来る気ないな(笑)。いやほんとにつくづくそう思ったな。(…)じゃぁ、俺が作った、TUBE前田亘輝に渡した曲、「この命の限り」
(26:29~)
次は今日が誕生日の柏原芳恵。なぁ、芳恵、結構な歳になって来たな。ねぇ~。こういうのをセクハラと言うのか?いや、お互い歳はとっていくもんだからなぁ。減っていったらおかしいんだから。俺が柏原芳恵に「じゃぁこの曲、歌って」って出したのが「タイニー・メモリー」
(CM後 33:52~)
しかしこうやって松山千春作詞作曲で人に歌ってもらうっていうパターンな、いくつかあるけど。まぁその、どれも売れたっていう曲はないんだけど。そりゃ本人の歌が売れてないからな。(提供した曲も)売れることはないんだけど。
この「タイニー・メモリー」は、とくにアレンジ、みんなもアレンジャーとか編曲者、要は曲は曲としてあって、イントロをどうするか、間奏をどうするか、これアレンジャーの仕事ですからねぇ。やっぱりアレンジが、自分でやる時と、人がやると、“ああ「タイニー・メモリー」、こういうアレンジになるんだぁ”っていう感じするもんなぁ。
♪涙でもどれるなら このまま泣いていたい
明日が来ないのなら それでもかまわない~♪
(アカペラで歌う)
いやぁ、これ自分で作っておいてなんだけどさ、ほんとにまぁ涙流して戻れるんなら、ほんとに泣いておきたいわな。明日来ないんなら来ないでいいや、ぐらいの。やっぱりその頃の俺はピュアだったんだな。ねぇ~(笑)。それからいろんなことがあってねぇ、こんな人間になってしまった。ねぇ~。
しかしながら、ステージに上がればピュアな松山千春がそこにいて歌っていることと思います。
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松山千春が柏原芳恵に「タイニー・メモリー」を提供したのは1983年。松山千春は前年の1982年、札幌・真駒内での5万人ライブを成し遂げ、まだ絶頂期の中にいた。
柏原芳恵の「タイニー・メモリー」はオリコンチャートでの最高位は6位、シングル売上は15万枚を超えた。また、TBS系『ザ・ベストテン』の最高位は8位、日本テレビ系『ザ・トップテン』の最高位は4位(参照:Wikipedia)だったので、この日松山千春が言った「売れなかった」わけではなく、むしろ売れたと言っていい。
下の写真、柏原芳恵が「タイニー・メモリー」を発売した直後だったと記憶するが、たしか当時の音楽誌「ギターブック」?もしくは芸能誌?(記憶が定かではない)に掲載された松山千春と柏原芳恵。
大きな文字で「涙が出てきちゃった…」とあるのは、柏原芳恵が松山千春からこの曲を提供され初めて聴いた時、最初の一節「涙でもどれるなら このまま泣いていたい」をくちずさんで「涙が出てきちゃった…」(間違っていたらご指摘ください)
高校1年の時に読んだ記憶が残る。
ちなみに柏原芳恵はシングル「タイニー・メモリー」が発売された2か月後の1983年11月に松山千春楽曲ばかりを10曲集めたアルバム『TINY MEMORY』を発売した。
今から見れば、松山千春への「トリビュートアルバム」だったと言えるかもしれない。現在ではまず考えられないことであり、松山千春全盛期という時代の波がなさしめた奇跡だろう。
松山千春のこの曲のセルフカバーは同じく1983年の11月に発売されたオリジナルアルバム『眠れない時代』に収録されている。
アルバムとタイアップした1983年秋のツアー「眠れない時代」では、弾き語りで歌っていた。この時弾いていたギターがこれ☟。おそらくヤマハLAというモデルをベースにボディに蔦模様、ネックに北海道のインレイを入れるなどカスタムしたギター。
私の記憶によると当時以来、まったくライブでは使っていないんじゃないかな。なんとなくだが。ファンクラブツアー衣装プレゼントの一環でこのギターも出してくれたら、一生分の願いを込めて応募する。
その後、全曲再録音&リアレンジしてリリースされたデビュー10周年記念アルバム『旅立ち』にも収録された。
松山千春―「タイニー・メモリー」(1983年Ver.)
松山千春―「タイニー・メモリー」(1986年RemakeVer.)