2023年8月27日
「松山千春 ON THE RADIO」(1)

 

8月27日は松山千春を見出し、この世界に送り出してくださった元STVラジオのディレクター竹田健二さん47回目の命日。番組開始11分以降終わりまで、竹田健二さんとの出会いから別れまでを語った。

 

その内容を2回に分けて書き残す第1回目(一部略した部分あり)。

 

あらためて、竹田健二さんを偲ぶとともに、松山千春と出会わせてくださったことに心から感謝します。合掌

 

<松山千春が語った内容(1)>

 

(11:16~)
さて、8月27日、と言えば、足寄でギターを弾いてた少年にチャンスをくれて、この世界へ押し出してくれたSTVラジオの元・ディレクター、竹田健二さんの命日にあたります。ん~、昭和52年、1977年1月25日に「旅立ち」という曲でデビューしたわけでありますけど。

出会ったのはその2年前、自分がまだぜんぜんアマチュアで、北見でバーテンとか、板前になろうか、とか。ただ、自分が最初にフォーク音楽祭っていうのに、ま、コンテストだよ。これに出ることになって、俺は、一次予選ってのがあって、一次、二次、そして最終的に北海道大会、全国大会になるんだけどな。

一次予選で帯広青少年会館で初めて竹田さんに会った。で、曲を、「旅立ち」を自分でギター一本で歌った。そしたら竹田さんが「松山君、そのギター、ひどいね」。で、俺はすぐカチンと来るタイプだからな、「ちょっと待ってください。これはギターの品評会に来たんですか?ギター、高い安いでこのコンテスト、決まるんですか?できれば歌の評価をしてもらいたんですけど」…って言ったら竹田さんが、「じゃ、別の、プロが歌ってる曲、それをコピーした…何が歌えるかな?」って言うから、かぐや姫から風に移った伊勢正三、正やんの「22才の別れ」を歌わせてもらいます」って言って、「あなたにさよならって言えるのは」ってやったんだよ。そしたら通過したんだよ。

で、今度二次予選っていうのが、これSTVホール。1975年…だからな俺が二十歳になったばっかりの頃だよな。そこで二次予選やって、また、竹田さんも悪いんだけど。「歌詞カードを見ないで歌った人間はポイントが高いです」…もうこの一言にね、私がほんとにだらしなかったんでしょう。「よし!歌詞カードは見ない」…一緒に付いて来てくれてた高校の同級生だったこまつはじめ。「はじめ、歌詞カード持ってろ。俺は見ないで歌うよ」…で、歌ったんだ。「私の瞳がぬれているのは~」

 

そしたら、こともあろうに二番と三番の詞を間違ったんだよ(順番を間違えた)。そしたら竹田さんがいきなり「松山君、これ歌詞の順番が変わると歌の内容も変わるよね」「あっ、そうですよね~。はいはい、分かりました。おい、はじめ、歌詞カード持って来い」…挑戦した俺がバカだった。「じゃ、竹田さん、歌詞カードを見ながら歌います」…で、第二次予選、受かったんだよ。「あら?おい、第二次予選も受かったぞ」

そして北海道大会。これは1975年の5月9日。司会がかまやつ(ひろし)さん。そしてゲストにはダウン・タウン・ブギウギ・バンド、風、シグナル、チューリップ。ゲストが豪華だからさ、みんな聴きに来るんだ。そんな中、私はですね、いきなり出ていくわけですよ(笑)。それもこれも話しが長くなりますけどねぇ。

5月9日に中島スポーツセンターっていう所でやったんだけど。俺は前の日から、足寄から出ていかなくてはならないからな、8日の日に札幌に入ったら、いわゆるタクシーと衝突事故よ。(…)(調書を取るので)明日の10時にもう一回来ていただけませんか?(と警察に言われた)で、俺が「すみません。明日10時と言ったら、大切なアマチュアのフォークコンテストの時間なんですよ」(…)で、警察から竹田さんに電話が行って、「おたくの、アマチュアで出場する松山千春君、昨日交通路を起こして、今中央署で取り調べをやっているので、もう少し時間もらいたいんで、送りますけど、いいですか?」竹田さんびっくりだよなぁ。「あ、そうですか。構いませんけど、宜しくお願いします」


で、俺が12時ぐらいに開放されて、5月の9日、忘れもしない。(…)そしたら隣のお廻りさんが(…)「よし、じゃぁ自分たちが前を走るから、くっ付いてきなさい」って言われてさ、パトカー先導で中島スポーツセンターへ入ったわけだよ。(…)楽しかったなぁ。

 

結局北海道大会も落ちたんだけど、その後、竹田さんが声をかけてくれて、レコード、そしてアルバムを出せることになりました。1977年、昭和52年だなぁ。この(『君のために作った歌』という)アルバム(の中から)、松山千春「君のために作った歌」

 


(27:31~)
フォーク音楽祭北海道大会で落ちて、全国大会には行けなかったんだけど、そんな俺に竹田さんが約1年近くかな?気にかけてくれてて、(ある時竹田さんが)「千春君、一緒にラジオやらないか?『千春のひとりうた』っていうコーナー作るから」

 

俺もいろいろ詳しく覚えているところもあるし、覚えていないところもあるんだけど。「千春のひとりうた」、ウィキペディアに概要が書かれています。(原稿を読み上げる:以下)

【1975年の「全国フォーク音楽祭 北海道大会」に出場し落選した松山のために、このコンテストを担当していたSTVラジオのディレクター・竹田健二が「サンデージャンボスペシャル」の中に設けたコーナー。このコーナーにおいて千春は竹田から毎週2曲の新曲を作ってくるように課題を与えられていたが、これはオリジナル曲のストックを増やすことが主たる目的であった。また、同コーナーは千春が人前で歌うための「訓練の場」でもあった。このコーナーのお陰で、「足寄のスーパースター・松山千春」の名は、北海道全域に知れ渡ることになった】

(※読み上げた原稿は実際のウィキペディアに書かれている内容と100%一致するものではない。おそらくスタッフが改変したのではないかと思われるが、主旨に誤りはない。目立つ改変は、ウィキペディアでは「足寄出身のシンガーソングライター・松山千春」となっているところを、原稿では「足寄のスーパースター・松山千春」となっている)

らしいぞ、お前。毎週2曲、2曲だから辛かったけど、好きだったから歌っていたんだと思います。

松山千春「オホーツクの海」

 

 

~(2)に続く