▼この「天声人語」の筆者は50~60代ぐらいだろうか。コラムを書いているので、言葉と共に生きて来た方だろう。その筆者が若者言葉に驚きながらも、時間と人、縦軸と横軸を織り交ぜながら、現代の若者たちに温かな視線を送る。
▼文中の芥川龍之介が大正時代に書き残したこと―もともと「とても」は否定形とセットで使われるはずが、最近では「非常に」「大変」と、その後に来る言葉を強調する意味でも使われている―まさにその用法は大正時代頃から出回り始めたようで、今もなお生き続けている。
▼「言葉は生き物である」…そのとおりで、言葉は時代や人、様々なシチュエーションなどの中で千変万化しながら生きている。なので100%絶対的に正しい用法などはないのだろう。また、新語があまた発生しても、その寿命は短いものもある。どうあれ、使う人の感覚が基本だと思っている。
▼自分の感覚だけを基準に、人を傷つける言葉や人を攻撃する言葉を発する時もある。自戒も込めて、ネット上での匿名の書き込みが横行する時代だからこそ慎みたいと思っている。言葉の世界に唯一誤りがあるとしたら、そういう言葉だろう。また、こういうせかせかした時代だからこそ、言葉を発する(公開する)前に何度も見直したり、一旦立ち止まり一呼吸おくことが大切だとも。
(天声人語)若者言葉に驚いた
2023年6月11日 朝日新聞
夕方のバス停でのこと。中学生らしき制服姿の女の子たちの会話が耳に入ってきた。「きのうさー、先生にさあ、ボロクソほめられちゃったんだ」。えっと驚いて振り向くと、楽しげな笑顔があった。若者が使う表現は何とも面白い▼「前髪の治安が悪い」「気分はアゲアゲ」。もっと奇妙な言い方も闊歩(かっぽ)する昨今だ。多くの人が使えば、それが当たり前になっていく。「ボロクソ」は否定的な文脈で使うのだと、彼女らを諭すのはつまらない。言葉は生き物である▼大正の時代、芥川龍之介は『澄江堂(ちょうこうどう)雑記』に書いている。東京では「とても」という言葉は「とてもかなはない」などと否定形で使われてきた。だが、最近はどうしたことか。「とても安い」などと肯定文でも使われている、と。時が変われば、正しい日本語も変化する▼今どきの若者は、SNSの文章に句点を記さないとも聞いた。「。」を付けると冷たい感じがするらしい。元々、日本語に句読点がなかったのを思えば、こちらは先祖返りのような話か▼新しさ古さに関係なく、気をつけるべきは居心地の悪さを感じさせる表現なのだろう。先日の小欄で「腹に落ちない」と書いたら、間違いでは、との投書をいただいた。きちんと辞書にある言葉だが、腑(ふ)に落ちない方もいるようだ▼新語は生まれても、多くが廃れ消えてゆく。さて「ボロクソ」はどうなることか。それにしても、あの女の子、うれしそうだったなあ。いったい何を、そんなにほめられたのだろう。
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(余談)
上の天声人語は「居心地の悪さを感じさせる表現」を避けたいと言う。相手を意識しての表現だと思うが、自分自身が「居心地が悪い」「座りが悪い」と感じる表現や言葉は、ぱっと浮かぶだけでもいくつかある。
あくまで余談として、私の感覚的なところを書いている。上に書いたとおり、正しいとか誤りとか、そういう判断をしているものではない。
ひとつは”シンドローム”と言っていい、どんな場面でも「~させていただく」表現。これはとくに聞いていて居心地が悪い。誰かの許可が必要ではなく、自分の意志からの行為であっても「させていただく」。それを聞いているとその場から立ち去らせていただきたくなる。
ふたつめはイントネーション。これは文字で伝えにくい話しだが、テレビのアナウンサーでさえ、そのイントネーションで読めば、言葉の意味が通じないだろう、違っちゃうだろう、と言いたくなる場面が結構ある。もちろん、間違ってはいないが、これまたどうも居心地が悪い。
(長谷寺/2023年6月7日筆者撮影)
趣味(コンサート関係)の世界で、あくまで私自身が「座りが悪い」と感じる、言い換えれば、私は使わないという言葉が二つ。
ひとつはコンサートに参加することを「参戦」と表現すること。気持ちは分からなくはないが賛成しかねるし参戦できないなぁ。
もうひとつ、コンサートツアーなどの最終公演のことを、もしくはワンステージ、ひとつの公演の最後に歌われる曲を「オーラス」と言ったり、書いたりすること。個人的には後者を頻繁に目にする。
もともとは麻雀の世界の言葉で「最後の一局」=「All Last」(オールラスト)、その短縮形らしいが。
ある程度長文のコンサートレポートなどを読む時、「参戦」と「オーラス」を避けながら読むものだから、くねくね、千鳥足気味になってしまう。結果、進み具合が悪いし、座りはもっと悪い。