<2023.03.06>起稿

 

「生きる」

―大川小学校 津波裁判を闘った人たち―

 

 

            ■公開日 2023年2月18日

            ■鑑賞日 2023年3月6日

            ■映画館 K's cinema(東京新宿)

            ■監  督 寺田和弘 

            ■プロデューサー 松本裕子 

 

 作品概要(同作品フライヤーから)

「あの日、何があったのか」「事実と理由が知りたい」

親たちの強い思いが、10年にわたる唯一無二の記録となった

2011年3月11日に起こった東日本大震災で、宮城県石巻市の大川小学校は津波にのまれる形で、全校児童の7割に相当する74人の児童(うち4人は未だ行方不明)と10人の教職員が亡くなった。地震発生から津波到達までには約51分、ラジオや行政の防災無線で情報は学校側にも伝わりスクールバスも待機していたにも関わらず、学校で唯一多数の犠牲者を出した。この惨事を引き起こした事実・理由を知りたいという親たちの切なる願いに対して、行政の対応には誠意が感じられず、その説明に嘘や隠ぺいがあると感じた一部の親たちは真実を求め、市と県に対して提訴に至る。彼らはその間、そして裁判が始まってからも記録を撮り続け、のべ10年にわたる映像が貴重な記録として残ることになっていく―

 

弁護団はたったの2人の弁護士

親たちが”わが子の代理人”となり

裁判史上、画期的な判決に―

この裁判の代理人を務めたのは吉岡和弘、齋藤雅弘の両弁護士。

わずか2人の弁護団で、「金がほしいのか」といわれのない誹謗中傷も浴びせられる中、原告となった親たちは事実上の代理人弁護士となって証拠集めに奔走する。彼らにとって裁判で最も辛かったのはわが子の命に値段をつけなればならないことだった。それを乗り越え5年にわたる裁判で「画期的」と言われた判決を導く。

親たちが撮り続けた膨大な闘いの記録を寺田和弘監督が丁寧に構成・編集し、追加撮影もあわせて、後世に残すべき作品として作り上げた。

 

映画『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』予告編

 

 寺田和弘監督の言葉

 

(寺田和弘監督)

 

本作品公開にあたり、監督の寺田和弘氏は毎日新聞、朝日新聞などからのインタビューや記者会見で語っていた。以下それらのまとめ。

 

「自分たちのような体験を二度と誰にも味わってもらいたくない、というのが遺族の強い思い。つらく悲しい教訓だが、記録に残すべきだと思った」

「遺族は子どものためにさまざまな批判がありながら戦い続けた。親はどんなことがあっても子のために戦ってくれると証明したと思う」

 

「裁判を起こすことで原告遺族は誹謗、中傷され、脅迫もされました。多くの津波犠牲者がいるなか、なぜ大川小の遺族だけに損害の賠償が、といった批判も起きています。映画をつくる前提には、こうした批判の背景にある『日本人の法意識』を問いたいとの思いがありました。それには裁判に至る経過を知ってもらうことが必要だと考えました」

 

「映画の最後に吉岡さんと共に裁判を担当した齋藤雅弘弁護士が、亡くなった児童に呼びかけるように『お父さん、お母さんたち、こんなに頑張ったんだよ。安心してね』と涙を流し語るシーンがあります。それは原告遺族に寄り添ってきた彼だからこそ流れた涙です。つらさや教訓ももちろん共有してほしいのですが、この作品には、原告遺族と共に闘った記録、軌跡を未来へつなぐ希望があります」

 

 所感

 心から、観てよかった。124分間、涙が流れ放しと言っていいほど、心が震えた。できればいつの日かこの作品がテレビ地上波で放映されることを願う。

 「学校が子どもの命の最期の場所になってはならない」「平時からの組織的過失」―との仙台高裁裁判長の言葉。画期的な判決と言われた(上告棄却)。

 当初親たちは裁判など起こしたくなかった。しかし、遺族説明会での度重なる学校と教育委員会の隠ぺいとも思われる嘘の発言を聞き、国が立ち上げた第三者調査委員会はその学校側の言い分をなぞるだけのような報告。「そんなことは第三者委員会から言われる前から分かっている!なぜわが子が学校で命を落とさなければならなかったのか―。知りたいのはそれだけだ!」―一部の親たちは提訴することを決めた。

 たった2人の弁護士(団)は2つのことで悩んだ。日本の法制度上、提訴するということは、亡くなった人の命を損害賠償金額で決めなくてはいけない。命に値段をつけられるはずはない。それは親たちの気持ちを踏みにじることにもなる。2つめは、提訴した原告側が証拠を集め、言い分を立証しなければいけないということ。津波ですべて流され、教育委員会側はこの件に関する資料を親たちに許可もなく破棄している中、わが子を亡くして傷ついている親たちにそれをさせるのか―。

 親たちは人伝に証言を集め続け、生き残った子どもたちに話を聞き、がんを患っている父親(遺族)が校庭から裏山まで何度も走り、本来の避難経路と所要時間を計測した。裏山にすぐに避難させれば、およそ1分で津波を回避できる地点まで行き、津波襲来までに避難させる時間はじゅうぶんあった。その様子も全部動画で撮影した。それらを裁判で提示した。

 大震災直後に開かれた学校側の遺族説明会から、ある一人の親が映像で撮り続けていた。もちろん後々映画を作るなどとは思いもしない。わが子の身に起こった事実を残したいがためだけである。それが1000ギガバイト、膨大な時間となり、それを知った寺田監督は、俳優も使わず、BGMや効果音、テロップも基本的には使わず、その記録映像と音声、製作側が遺族にインタビューした映像だけで124分のドキュメンタリー映画を作り上げた。

 「死にたい。(亡くなった)息子のもとに行きたい」と漏らす夫。「まだ、そっちに居なさいとあの子が言っているよ…」と諫める妻。そんなシーンも収録されている。それらのシーンから、最愛のわが子を失い、生きる希望を失った親たちが、悲しみを育みながら、わが子と共に、わが子の分まで「生きる」ことへの誓いが伝わってきた。寺田監督はスタッフと何度も話し合い、最終的に本作品のタイトルを「生きる」とした。
 映画の最後に主題歌、廣瀬 奏が歌う「駆けて来てよ」が流れる。この曲は2人の弁護士のうちの一人、吉岡和弘氏が作詞作曲したものである。

 「もう一度だけでいいから 思い切り抱きしめたい あなたの笑顔を見ていたい 愛していると伝えたい だから 帰っておいで 戻ってきてよ 大空の果てから 駆けてきてよ」

 

廣瀬 奏―「駆けて来てよ」

 

 2023年8月8日 大川小学校遺構 訪問

 

 

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 上映終了後

 上映終了後、すぐにトークセッションに移った。司会は本作品プロデューサーの松本裕子さん。パネラーは、研究者としてこの問題に携わり続けている飯 考行さん(専修大学法学部教授)、そして地下鉄サリン事件被害者遺族の高橋シズヱさん。高橋さんの夫は駅員として、乗客のため猛毒のサリンを拭き取り、命を落とした。
 さらに、途中高橋さんが席で鑑賞していたオウム真理教事件に携わり続けている江川紹子さん(ジャーナリスト)にコメントを求めるシーンもあった。

 高橋さんがコメントしていた。

 「この作品をこれまで5回観た。この映画は遺族の視点で作られている。亡くなった子どもたちがこの映画の主役だ。我が国では被害者遺族の権利は保障されていない。地下鉄サリン事件の公判では、当初遺族席さえ設けられていなかった」

 「この大川小学校の事件では、遺族が記録を残し続けたこと、メディア対応が迅速だったこと。これらは大いに学ぶ点であり、遺族の皆さまの功績である。当事者が発言を、記録を残すことがとても大事」

 「ネット上には心なき批判が渦巻いている。私が訴訟を起こした時、知人から電話がきた。”金を貸して欲しい”と。ニュースで損害賠償額が一人1億円と出た直後だった。それくらいまだまだ日本における法意識は未発達である。大川小学校の遺族にも殺害予告(犯人は逮捕)が来たり、ネット上では”そんなに金が欲しいのか”との批判が多数出ていた。そうした心ない批判をした人たちはこの映画を見て欲しい。その時の自分を悔いて欲しい」

 コメントを求められた江川さんが言った。

 「今回のように、当事者が記録を残していたそのことがとても重要で、それは相手側にも残すことを求めるべきである。私は一連のオウム裁判、麻原の法廷を全て映像で記録するよう裁判所に申し出たが一顧だにされなかった。後世の人たちに記録を残せなかったが悔やまれる」

 出口に上記お三方がいた。松本プロデューサーには「素晴らしい作品を作り残してくださり、ありがとうございます」と伝えた。松本さんからは「そう言っていただけると本当に嬉しく思います。スタッフたちも喜びます」

 高橋シズヱさんにも「個人的にずっとオウム事件を追いかけています。今日は高橋さんと直接お会いでき、貴重なお話しをうかがうことができて心から光栄に思います。ありがとうございました」と伝えた。高橋さんは「ありがとうございます。判決が出た今も闘っています。これからも闘い続けます」

 

【更新履歴】

<2023.8.14>
2023年8月8日、大川小学校を訪問した際の映像と写真挿入
<2023.3.11>
記事本文ILで「寺田和弘監督の言葉」追記。「3.11」12年の日に。