1月16日、それこそ25年ぶりぐらいに湘南、江ノ島界隈に行った。
青い海と青い空、富士山も見える。浜田省吾の「日はまた昇る」の歌詞さながらの景色が目の前に広がる…行く前の私のそんな楽しみ(期待)があったからこそ、とても寒く雨が降ったこの日を指して「めちゃくちゃ天候が悪かった」と書いた。
晴れへの期待があったからこそ、雨=天気が悪い、と思ったわけで、あくまで私の基準による主観。雨が降れば何でもかんでも天気が悪い、ということではない。
昨年6月の日経新聞コラム「春秋」がそのことを書いていたのを思い出した(以下全文引用)。
小学5年生の素朴な質問は、春秋のみならず、知らず知らずに固定観念を持っていた私自身の脇腹も「ねぇ、ねぇ、お兄さん」と呼ばれながら、小さな手でちょんちょんつつかれた気分だった。
雨が降れば喜ぶ人がいたり、好条件に見える状況もある。良い悪いというだけの価値判断ではなく、雨が降ることが楽しみな人や場合もあれば、雨が降ることにいろんな意味を持たせた詩も歌も数々ある。
こういうつつかれ方は私自身どこか快感で、小さくも新たな気づきを与えらえて嬉しく思う。
先だってNHKのラジオ番組「子ども科学電話相談」を聞いていて、はっとするような質問に出合った(春秋)
2022年6月20日 日本経済新聞
先だってNHKのラジオ番組「子ども科学電話相談」を聞いていて、はっとするような質問に出合った。「なぜ雨の日を『天気が悪い』と言うのですか?」。思い込みという名のぜい肉で分厚く重たくなった常識の脇腹を、小さな指でつつかれたような心持ちになった。
▼尋ねた小学5年の児童は不思議に思った。きっと曇りのないまっさらな心と頭で。なぜ雨=天気が悪い、なのだろうと。気象予報士の誠実な答えもよかった。世の中には雨が好きな人もきらいな人もいる。けれどどちらかといえば都合の悪い人の方が多い。だから雨の日を「天気が悪い」と言うようになったのではないか。
▼この予報士はたとえ雨が降っても、めったに「天気が悪い」とは口にしないと語っていた。「雨の降る日は天気が悪い」は当たり前のことを指すたとえである。でもどしゃぶりに遭遇しても悪態をつかず「ああ! 結構なおしめりだ!」と言えば、悪天候でなくなると仏哲学者アランは「幸福論」(神谷幹夫訳)に記した。
▼この偽善っぽさが少々鼻につく向きには、ジーン・ケリーの映画「雨に唄(うた)えば」はどうだろう。恋に落ちた男が水たまりに飛び込み、雨樋(あまどい)から落ちる水を浴び、ずぶ濡(ぬ)れになって歌い踊るシーンは、いつ見ても心躍る。あるいは北原白秋作詞の「あめふり」か。ピッチピッチ チャップチャップ……。童心に帰るのもいい。
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林原めぐみー「あめふり」
(作詞:北原白秋/作曲:中山晋平)

