~あらためて、松山千春の恩師・竹田健二さん、私自身も竹田健二さんを思う松山千春の心に触れ、僭越ながら恩師のように感じている竹田健二さんを偲びながら本稿を書いている。
「松山千春コンサート・ツアー2022」(秋~冬)のファイナル公演が12月22日、カナモトホール(札幌市民ホール)で開催された。
この日はそれまでの公演とは違って、オープニングに「旅立ち」を持ってきて、2曲目に「時のいたずら」を入れた。
「時のいたずら」は1977年11月25日発売のサードシングル。その3か月前に恩師・竹田健二さんが急逝しているので、松山千春が実質一人で歩き出したスタートの曲。本人もそういう捉え方をしていて思い入れが強い。
カナモトホール(2日目)、「時のいたずら」を歌う前に
「竹田さん届いてますか。今日は一緒にコンサートに参加してください」
と言った主旨の語りがあったそうである(参加された夢野旅人さん記事)。
またこのファイナル公演(2日目)を報じた各紙記事中にもこの部分の語りが記されていた。
「デビューした年に恩師の竹田(健二=STVディレクター)さんを亡くして、これから1人でどうしたらいいのかと思ったが、今、こうして応援してくれるファンがいる。今日は、天国の竹田さんにも参加してもらえるように頑張って歌いたい」
きっとその影響もあったのだろう。ファイナル公演終了直後から今日にかけて、2年前に書き残しておいた以下<2020年8月23日記事>に多くのアクセスをいただいている。
下の記事の最後に「旅立ち」の公式ライブ映像(2021年11月@東京国際フォーラム)を挿入した。
<2020年8月23日記事>
今夜(2020年8月23日)の「松山千春のON THE RADIO」
8月27日が松山千春の生みの親であり恩師である故・竹田健二さんの命日ということもあり、一時間全てを、とくにデビュー前の竹田さんとの日々を語ることにあてた。
冒頭で
「私をこの世界に生んでくれた、フォークシンガー松山千春をこの世に出してくれた竹田健二さん。8月27日が命日です。生きていれば79歳。36歳で亡くなってしまいましたから、残念なんですが」
この後30分以上かけて、45年以上前に遡り、竹田さんとの出会いを時系列で語った。
最後の約10分で以下を語った。
フォーク音楽祭、北海道大会(落選)。昭和50年(1975年)5月9日、”ああ、これで終わった”…しかし竹田さんが「いつかラジオやってみないか?」
何の契約を交わすわけでもないし、ただ口約束。そして自分は足寄へ帰ってオヤジの仕事を一生懸命やってた。そしたら次の年、昭和51年(1796年)、4月からSTVラジオでサンデージャンボスペシャルという番組が始まることになり、竹田さんから電話が来て、
「昼の4時間のワイド生番組なんだけど、15分、”千春のひとり唄”というコーナーを設けるので、毎週2曲ずつ作ってきてくれるか?」
嘘みたいな話が舞い込んで来て、
「え?竹田さん、毎週2曲作ってくんですか?」
「うん。同じ曲はだめ、必ず新しい曲を2曲ずつ作って」
…で始めて、毎週日曜日札幌に来て、STV会館で、またスタジオで。最初スタジオでギターセットしてもらって、
「竹田さん、俺しゃべり苦手ですよ。何と言ってもこんなしゃべり方ですから、ラジオの前の皆さんに急にバカ丁寧になって話せるような男じゃないですよ。
竹田さんが
「普段の千春君のしゃべり方でいいよ」
と言って毎週2曲ずつ足寄から通いながら歌ってました。
(竹田健二さん:後列と松山千春。
二人で撮った唯一の写真)
帯広からだったら(札幌まで)当時は4時間ぐらいか。毎週行きながら、足寄に帰ってはまた新し曲を2曲作って、毎週のように披露していくうちに、その年の秋か、
「レコーディングをやろう」
「え?竹田さん、俺がレコード出すんですか?」
俺にはなにも言わなかったけど、当時のSTVの社長、専務、上役の方々はみんな反対で。
「どこの馬の骨とも分からないような、ましてや一地方のローカルのラジオ局からフォークシンガーを出す、責任を持ってレコードを出す…そんなのは聞いたことがない。竹田君、無理だよ」
そしたら竹田さんが
「退職金を前借りできますか?」
「竹田君、本気なのか?松山千春というのはそれだけの価値がある男なのか」
「彼なら絶対やってくれるはずです。彼ならやりきれるはずです」
と言って、上の方々に頭を下げて、最初に出会った「旅立ち」という曲で昭和52年(1977年)1月25日、デビューする段取りとなりました。
本当に人と人とがめぐり会う。出会う。尊いことだなとつくづく思います。ましてその方が自分の将来を決定づけるような、恩師と言えば恩師、育ての、生みの親と言えば親。
昭和52年1月25日、「旅立ち」でデビューして…。そしてその年の8月8日、初めてコンサートをやらせていただき、8月10日苫小牧、11日が帯広、12日が北見、17日が室蘭。27日が函館市民会館。
竹田さんと一緒に函館、久しぶりにコンサートを聞いてくれるって言うんでこのSTV会館で待ち合わせして一緒に行くことになっていました。
ところが、俺は来たけど竹田さんは亡くなった。
「そんなバカな。昨日の夜電話でも話したのに」…すぐに竹田さんの家へ行って、もうその日は何が起こったのか、どうやって函館に行って、何を歌ったのかも分からないような状態でした。
けど、みんな、人とは出会うべきです。出会いがあるからこそ別れもあるんでしょう。
いつでも竹田さんは俺のことを見守ってくれていると思っています。竹田さん、あなたの言うような立派な松山ではないかもしれないけど、今夜もこうしてラジオで頑張ってます。ありがとうございます。
松山千春デビュー曲「旅立ち」で今回お別れです。
「旅立ち」
(松山千春コンサート・ツアー2021「敢然・漠然・茫然」)
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話すだろうと予想はしていたが、まる一時間、この話題で通すとは思っていなかった。聴きながら、自伝「足寄より」に書かれているいくつものシーンが浮かんで来た。どうしても一面的で断片的になりがちな政治の話しよりも、世間や誰かを批判するよりも、こういう話しにこそ松山千春の良さが凝縮されているといつも思う。聴きながら、幸せな時間が流れた。
松山千春は1986年に「碧い海」という曲を発表している(アルバム『あなたが僕を捜す時』収録)。その中に美しいフレーズがある。
「君に出逢えたことで 僕の明日が見えた」
曲自体は恋愛仕立てで、上は最後のフレーズ。ここを普遍化すれば、今夜松山千春が語ったことの根底にある、会い難き人との会い難き出会いと言ってもいいかもしれない。
まったく会い難きは人である。それまでの自分の人生を一変させ、その後の人生の針路を決定づけるような出会いがある。その人に出会ったからこそ今の自分がある…そういう出会いを持つことほど幸せなことはない。