2022年12月16日放送
「吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」最終回
年内で芸能活動を終了する意向の吉田拓郎がパーソナリティーを務めるニッポン放送の「吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」最終回が16日夜、放送された。
12月14日には映像作品『Live at WANGAN STUDIO 2022』が発売され、次いでこの放送で吉田拓郎は基本的には一切の音楽活動を終了する。
吉田拓郎 / Live at WANGAN STUDIO 2022 -
AL “ah-面白かった” Live Session-【Official Trailer】
ラジオ番組、ミュージシャンがパーソナリティを務めるラジオ番組に、こうあるべきだという定型はないと思うが、物事の考え方がクリアが故か、話し上手で、歯切れよく、自分の考えをストレートに語る吉田拓郎の番組を聴いていると、ラジオ番組ってこういうのを言うんだろうなといつも思う。
16日放送の番組の後半、吉田拓郎の音楽人生の中で「素敵だったこと」、さらに今後の人生について語った部分のみ書き起こした(以下マット)。
放送の概要はその下、NIPPON放送NEWS ●NLINEから全文抜粋した。
東京に来てから50数年間、音楽活動をやって来たんですが。歌を歌い、ステージをやり、いろんなことがありましたが、そういう中で僕の、ミュージシャンとしてひとつ大きな、自分の、なんて言うんだろう、どこか行く時のお土産としてね、とても素敵だったことはですね、作曲家として、僕は作曲家っていうふうに呼ばれたことはないんですけど、作曲家としてのオファーが結構たくさんあって、これはこれで僕はすごく楽しかったっていう思い出があります。
で、それなりに大事にした曲もあったし、まったく、全然売れなかった曲もたくさんありました。全部埋もれてますけど。僕はその音源をすべて自分で持っているんですが。そういう”売れる売れない”関係なく、作曲を人から依頼されて、その人のために曲、メロディを書くというのはすごい楽しかったと思います。

まぁ、これから吉田拓郎、どうするんだ?っていうところとか、これからどんな日常を送るんだ?なんてことはまぁ、言ってみればどうでもいいことで。
僕は僕なりに、これから、という道をまた進んでいく、歩いていくしかないわけですけれども。まぁ、そこをひたすら歩くのが僕の人生だと思っているので。新しい道が明日から始まるんじゃないかと、既に僕は「始まってるな」と思ってるんだけど。
それはやっぱり今来た道をずっと歩いてるんじゃない新しい道ということなんで。この新しい道の結論ていうのが、また何年か後には出るんだなと思ってます。今日話したのはここまで歩いて来た僕の道だったけど、明日から僕は違う道を歩くことになるだろうと予測してるわけです。
うちは家族と言っても、佳代(=森下愛子)と二人っきりですから。二人で”老老人生”に入っていくわけですが。(…)で、いつも二人で一緒にいたいから、だから、二人でいられる、っていう方向を選ぼうなということもよく二人で話すんです。(…)佳代と二人でまた新しい道を歩んでいくと。で、そこには何が待っているかは生きてみなきゃ分からないということです。
本当に長い間、みなさん、ありがとうございました。
吉田拓郎「ラジオに育てられて、ラジオと共に青春したな」 自身のラジオと音楽の歴史を大いに語った最終回
By - NEWS ONLINE 編集部
公開:2022-12-17 更新:2022-12-17
吉田拓郎がパーソナリティを務める『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』(ニッポン放送)が、12月16日(金)の放送で最終回を迎えた。
吉田拓郎とニッポン放送の縁は深く、1971年の『バイタリス・フォーク・ビレッジ』のレギュラーパーソナリティから始まり、1974年からと1980年からの2回にわたって『吉田拓郎のオールナイトニッポン』を担当。1997年には『吉田拓郎のオールナイトニッポンDX』、2009年からは『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』、そして2020年からは『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』を担当するなど、オールナイトニッポン55年の歴史と共にあった。
しかし、吉田は「最終回だからといって特別な企画があるわけじゃない」と言って、いつもと同じ落ち着いた口調でこれまでのラジオとの長い歴史を語り出す。
2020年4月からスタートした『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』に関しては「ずっと家で1人で録っていた印象」とコロナ禍に入ってから始まった番組ならではの印象を語り、「やっとスタジオに来てゲストの方に会えて嬉しかったけど、あっという間に最終回がやって来てしまった」と笑い交じりに話す。
そんな吉田が東京で初めて出演したラジオは、アール・エフ・ラジオ日本(旧名ラジオ関東)の番組だったそう。そこで「帰ってきたヨッパライ」やザ・フォーク・クルセダーズの活動などで知られる加藤和彦さんと知り合い、“動物的な勘”から彼に好かれ、それから楽器のこと、レコーディングの仕方など色々とアドバイスを受けたという。その時に「Gibson J-45」の話をした吉田。後日、加藤さんがわざわざ吉田の当時のレコード会社・エレックレコードに「Gibson J-45」を持ってきてくれ、「これがGibson J-45の音だよ」「これ弾きなよ」と言ってくれたのだとか。「そこから僕の楽器へのこだわりがスタートした」と加藤さんとの出会いが自身のルーツになっていると明かした。
その後、TBSラジオからオファーを受けて『パック・イン・ミュージック』の木曜パーソナリティを、きたやまおさむから引き継ぐ形で担当。そのディレクターを務めていた“増田”という男性から影響を受けたという吉田。当時はラジオにライターが着いておらず、深夜放送にも関わらず21時にはスタジオに入り、パーソナリティ自らが内容を決めていたという、当時のラジオの収録スタイルについて語ったほか、さらに、突然アントニオ猪木さんが突入してきて驚いたというエピソードを語った。
そして1971年の『バイタリス・フォーク・ビレッジ』でニッポン放送初レギュラーを担当。ギタリストの石川鷹彦、後に吉田とタッグを組むことになる作詞家・岡本おさみさんがスタッフとして参加していたのを、吉田は後から知ったと言う。また、公開録音で北海道に行った際、デビュー前に会ったという中島みゆきのことも強烈に覚えているそうで「まさかこの人が日本を代表するアーティストになるとは夢にも思わなかった」と驚きを語っていた。
1974年からと1980年からの2回にわたって『オールナイトニッポン』のパーソナリティを担当。色々なディレクターと関わり、様々な経験を経て「ラジオが好き」という結論に辿り着いた吉田。テレビにはない、ラジオだからこその魅力を語り「ラジオに育てられて、ラジオと共に青春したな」と話した。
ラジオ以外にも、東京に出てきた当時を振り返る場面も。吉田が東京で音楽活動を初めて約50年、その中で一番“ステキ”だと心に残っていることは「作曲家としてのオファーがたくさんあること」だと言う。「売れる売れない関係なく、作曲を人から依頼されて、その人のためにメロディーを書くのがすごく楽しかった」としみじみ。
オファーを受けた際に吉田が必ず相手に伝えていたことがあると言い、それは「作詞はしません」ということ。曲へ思いが昂ってしまい、イメージと違うことを書いてしまいそうだと自身でわかっていた吉田。そのため「作詞はしません。それで良いならお受けします」と全てのクライアントに伝えていたと明かす。
さらに、作詞家やアレンジャーをする人も「可能であれば作詞はこの人が良い」と希望も伝えていたそう。萩田光雄と馬飼野康二に関しては「この2人のアレンジに関しては、任せておけば大丈夫!」と絶対的な信頼を置いているようで、「(2人は)吉田拓郎の曲に関しての理解は、業界で一番深いのでは」と太鼓判を押した。
様々なアーティストに楽曲提供してきた中で、特に「あぁ、俺すげー良い曲作った」と思っているのはキャンディーズの「やさしい悪魔」。「文句なし。あの頃のキャンディーズにはない、その後の日本のポップス界にはない、60年代のアメリカンポップスのリズム&ブルースから来ているメロディライン」と語った。そしてもう1曲は、作詞を担当した松本隆の世界観が大好きだという、かまやつひろしの「水無し川」。「この詞が松本の書いた中で一番好き。メロディーもすごい好き。今でも寝る時に聞いています」と思い入れがあると語っていた。
吉田拓郎のラジオ、そして音楽の歴史が大いに語られた2時間。エンディングでは、今後について「僕は僕なりに道をまた進んでいくしかない。明日からまた新しい道が始まるんじゃないかな」と吉田らしいコメント。そして「本当に長い間、ありがとうございました」とリスナーにメッセージを送り、『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』2年9か月の歴史に幕を下ろした。