喉がつぶれたって構わない…あの日、松山千春が歌手人生を捨てる覚悟で叫び続けたこと
鈴木宗男「政治家人生40年、1度たりとも忘れたことはない」
PRESIDENT Online 2022.11.27
鈴木 宗男(参議院議員/新党大地代表)
人生の修羅場を乗り越えるにはどうすればいいのか。参議院議員の鈴木宗男氏は「人との縁が何よりも大切だ。私自身、秘書として仕えていた議員の死、逮捕、がん告知と、幾度となく人生の終わりを感じてきた。それでも政治家としてここまでやってこれたのは、心の友、松山千春がいたからだ」という――。
「あなたは私から離れてくださって結構です」
「チー」と呼んでいるシンガーソングライターの松山千春さんは、私の“心友”。つまり、生涯の心の友です。
人気稼業ですから、特定の政治家と親しくすることは、マイナスになりかねません。現に、空港や駅などでファンから声をかけられるとき、こんなことを言われるそうです。
「鈴木宗男なんかと、なぜ付き合うのか」「鈴木宗男と縁を切らないなら、ファンをやめます」
もちろん、その場しのぎで「わかりました。もう、あの人と付き合うのはやめますよ」と答えておけば、済んでしまう話です。
「だけど宗男さん、俺は言うんだ。『あなた、鈴木宗男の生き様、人間性を知ってるんですか。私はよく知っています。同じ故郷に生まれて、一緒に苦労しながら育ちましたから。私は鈴木宗男から離れません。あなたは私から離れてくださって結構です。私は私の努力で、新しいファンを開拓します』ってね」
千春さんは、そう話してくれました。
2人とも叩き上げの人生だった
千春さんも私も、北海道の足寄町の出身です。日本有数の寒冷地で、私もマイナス35度を経験しています。私も貧乏だったし、千春も貧乏でした。小学校の高学年くらいから、牛乳や卵を売って学費の足しにしていました。
2人とも叩き上げの人生です。貧乏な境遇を乗り越えていくガッツが共通していて、経験が大きな財産になっています。
足寄高校では私の8年後輩で、千春さんのお姉さんが私の2年後輩でした。ちなみに足寄高校の卒業式では、「蛍の光」の代わりに千春さんの名曲「大空と大地の中で」が式歌です。
ありがたいことに、2人とも町の発展に貢献したと認められて、表彰されています。特に千春さんはデビュー40年の年、名誉町民に推挙されました。北海道で成功した芸能人には東京へ移る人が多い中、千春さんは足寄から離れません。税金も足寄に納めていますから、偉いものです。
お父さんの明さんは、「とかち新聞」というローカル紙をたった一人で発行していました。町長批判も辞さない、田舎には珍しい反骨の新聞です。ピシッと筋を通す性格は、お父さん譲りに違いありません。
明さんは、中川一郎先生の秘書をしていた私の働きぶりを見て、「いつ、選挙に出るのか。早く国会議員になれ」と、思想信条を超えて励ましてくれたものです。
集会には人口の半数近くが集まった
隣町の陸別から集会をスタートすると、人口約4000人の町なのに300人も集まってくれました。次は地元の足寄で、当時は約1万人ほどの人口でしたけど、3000人くらい集まってくれました。千春さんが思わず、「足寄にこんなに人がいたか」と言ったほどです。地元から国会議員を出そうという気持ちが強かったから、共産党の町会議員まで来てくれて、「宗男がんばれ!」と叫んでいました。
なんとか4位当選が決まって千春さんに電話をすると、「よかった、よかった」と喜んでくれて、千春さんも私も大泣きでね……。そして、こう言われました。
「宗男さん、政治家は声なき声に寄り添わないといけませんよ」
以来40年、その言葉を忘れたことはありません。
選挙のあと、音更の診療所に入院していたお父さん、明さんのお見舞いに行きました。認知症の兆候が出ていた明さんは、私の顔を見ると尋ねました。
「鈴木君、いつ選挙に出るんだ? 応援するぞ」
「父さん、宗男さんは、もう国会議員になったんだよ。今日はその報告に来たんだ」
横から千春さんが説明しても、
「いつ選挙に出るんだ?」
と繰り返します。
私は、明さんの手を握って言いました。
「近いうちに必ず出ます。そのときはぜひ応援して下さい」
となりにいた千春さんの目に、涙が浮かぶのが見えました。
有罪判決を受け収監されたときにも来てくれた
人間というものは、上り調子のときは寄って来て、下り坂になれば離れていくのが普通です。
しかし千春さんは、私が日本中からバッシングを受けていたときも、決して見限りませんでした。鈴木宗男事件で有罪判決を受けたあと、収監されていた栃木県の喜連川社会復帰促進センターへ面会に来て、身体を気遣ってくれました。12回を数えた選挙のたび、最初のときと同じように骨身を惜しまず支援してくれました。
私が平成17年に新しい政党を立ち上げるとき、「新党大地」と命名してくれたのも、シンボルカラーを緑と決めてくれたのも、千春さんです。私のネクタイの色は、それ以来ずっと緑。
『月刊さっぽろ』昭和57年2月号の「ふるさと対談」に出たとき、千春さんはデビューして5年でしたが、『季節の中で』が大ヒットして人気絶頂。私はまだ中川先生の秘書でした。その記事に、こんなやり取りがあります。
〈鈴木 聞くところによると、政治家を志すと言われているね。
松山 それは、子どもの頃からの夢です。いつかは、政治家になって日本の国を動かしてみたい。それは、男のロマンの部分ですね。〉
千春さんは自身の夢を、私に託してくれたのかもしれませんね。
財界人や有力政治家に世話人を頼むのが普通だが…
この10月に札幌で、「鈴木宗男・鈴木貴子 北海道セミナー」を開催しました。政治家は、地元の財界人や有力政治家に発起人や世話人を頼むのが普通です。しかし私はずっと、千春さんに代表世話人をお願いすると決めています。
挨拶に立った千春さんは、
「姉貴が舌癌で辛かったとき、宗男さんはいつも心にかけてくれた。いつどんなときでも、人の心を忘れないのが宗男さんだ」
と24年前の思い出を、涙ながらに語ってくれました。
コンサートでも、しばしば私の話をしてくれます。
「人間、一生のうちにどれだけ人を愛し、人を信じることができたか。俺は宗男さんから人を信じることを教えられた。俺は相変わらず鈴木宗男を信じているし、これからもずっと支えていく」
ありがたいことです。人との出会いや縁は、人生を変えます。私はいい友に巡り会ったと、心から感謝しています。
(構成=石井謙一郎)
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松山千春ー「道」(2022年)
松山千春がどういう政治信条を持ち、誰を、どういう政党を支持するかについては個人の自由であり、私がどうこう言う筋合いのものではない。
鈴木宗男氏の支持者でもない。敢えて一点挙げるとしたら、氏がライフワークとしてその存在をかけて取り組み続けているロシアとの外交、交渉。これについては、どういう問題であれ、氏の発言に耳を傾けるべきだと思っている。
私自身の生き方として、一度縁した人を大切に、長く親交を結んでいきたいと常に思っている。
当然、人生には良い時もあれば悪い時もある。私としてはその人がむしろ悪い時、苦境に置かれた時にこそ声をかけ応援したいと思っている。その時にこそこちらの相手を思う気持ちが、ある意味試されるものだと。
その意味で、社会からの批判があっても、鈴木宗男氏との友情を大切にし続ける松山千春の姿勢は、人間として立派だと思っている。