<2023.2.24再掲>
<2022.11.15記事>
そもそも「ニュースとは何か」についての社会的定義が必要であること、さらにニュースに接触するには主にネットを介する時代であることを前提としつつ。
人びとの「ニュース離れ」が一層叫ばれている。とくに新聞をはじめとするレガシーメディアは「ニュース離れ」を防ぎたい意志を持つ。
一方、「ニュース好き」を増やすためには、時代の流れに乗って「強い感情」を喚起するニュースを発信する必要があることを認識している。しかしそうしたニュースによって引き起こされる関心は一過性であり、さらにそれは「ニュースそのものに対する嫌悪や反発も増幅させ」(以下記事)る可能性をも含んでいる。つまりそこにトレードオフの関係が横たわる。
ネットを中心に玉石混交、虚実入り混じったニュースが発する熱に包まれている現代。ちょっとした解熱剤のような、いい記事である。
オピニオン(山腰修三のメディア私評)
ニュース離れの処方箋 「強い感情」に傾斜しない魅力を
2022年11月11日 朝日新聞
去る10月15日から21日は「新聞週間」であった。「報道の使命と責任に対する自覚を新たにし、報道の役割について広く理解を求める機会」とされる。読者や幅広い社会に向けて、新聞が手がけるニュースの魅力をアピールする期間というわけである。
各紙は紙面でこの1年の自社の報道の成果を示した。例えば、各種のスクープやデジタル技術を駆使した社会課題の解決に役立つニュースの発信といった、新たな取り組みの紹介である。また、インターネット上に虚実入り交じった情報があふれる中で、現場の取材に基づいた新聞の情報の信頼性や正確性も強調された。
毎年、新聞週間に合わせて世論調査を実施している読売は、今年の調査結果に関して「新聞報道を信頼し、新聞が事実を正確に伝えていると考える人が7割を超えた」と評価した。その一方で、気になるデータもある。18~39歳では新聞を「全く読まない」割合が57%に達したという。10年前の同社の調査を調べてみると、「全く読まない」割合は20代で18%、30代で11%だった。この間に「新聞離れ」が急速に拡大したことがうかがえる。
ただし、これを単なる「新聞離れ」とまとめてしまうと、全体を見誤ることになる。現在、さらに深刻な「ニュース離れ」が世界規模で進んでいる点に注目する必要がある。
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英国のロイタージャーナリズム研究所が毎年公表している「デジタルニュースリポート」の最新版は、ニュースへの接触をあえて避けようとする人々が世界的に増加していると分析し、衝撃を与えた。新聞やテレビといった伝統的メディアであれ、ソーシャルメディアやアプリといったデジタルメディアであれ、新旧のメディアを問わず、ニュースそのものが嫌われていることを意味するからである。
さらに、好き嫌い以前にそもそもニュースに接触する習慣を持たない無関心層も増加傾向にあり、日本は世界的に高水準の15%に達した。これは、政治や社会問題といった「ハード」なニュースに日常的に接触する習慣そのものが失われつつあることを示しており、ネットへ移行して生き残ろうとする新聞などニュースメディアのシナリオはますます困難なものとなる。
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こうした「ニュース離れ」に処方箋(せん)はあるのだろうか。「ニュース好き」層を増やすことが取りうべき方策となるだろうが、その前に、まずは人々のニュースへの接触の習慣を再生できるかが鍵となる。もちろん「紙」への回帰は現実的ではない。ネット上でニュースに接触する習慣をいかに広げるかが問われている。
ここで留意すべきは、インターネットが「強い感情」を中心に駆動している点である。アクセス数やクリック数を稼ぐことが何よりも優先されるネットの世界では、たとえそれが怒りや憎しみを喚起するものであっても、注目を生み出しさえすれば「成功」と見なされる。
だが、この原理はジャーナリズムにとってジレンマとなる。一方では、ネットで関心を高めるには一部の人々に義憤を生じさせるようなニュースがますます求められる。そもそもニュースとはそうしたものだという意見もあるだろう。巨悪の不正を暴いて怒りの世論を生み出すのが「良いニュース」だ、というわけである。
もちろん、調査報道に代表されるこうした報道の意義を否定するつもりはない。注目したいのは、この種のニュースが「強い感情」を喚起するがゆえに一部の熱心なファンをひきつける点だ。そしてそれがニュースの「魅力」と考えられてきたのである。
しかし他方、この力学への過度の依存は「ニュース離れ」のさらなる加速化をもたらすであろう。「強い感情」を喚起させるニュースは、ニュースそのものに対する嫌悪や反発も増幅させるからだ。「強い感情」によって生じるニュースへの関心は、得てして一過性で長続きしないという点も考慮する必要がある。つまり、こうした種類の報道は、人々のニュースメディアへの日常的なアクセスの習慣の復活に必ずしも結びつかないのである。
新聞をはじめとする伝統的なジャーナリズム組織は今、重大な選択を迫られている。「ニュース離れ」のさらなる加速化と引き換えに、「強い感情」に基づくニュース制作に傾斜し、一部のファンを囲い込むか否かである。
この道を選びたくなる気持ちは分かる。だが、それはニュース文化の一層の貧困化をもたらしかねない。幅広い「ニュース好き」層を増やすためには、ニュースの魅力について深く再考するべきだろう。それはジャーナリズムの世界で完結させず、社会を巻き込みながら進めることが肝要である。
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1978年生まれ。慶応義塾大学教授(ジャーナリズム論、政治社会学)。主著に「ニュースの政治社会学」。
■わたしのネタ元 ニュース離れの実態と背景
「新聞離れ」は別の調査でも確認できる。総務省の「情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」によると、「最も利用しているテキスト系ニュースサービス」として新聞を挙げる割合は2013年の59%から21年の19%へと激減。新聞社の無料ニュースサイトを最も利用する人は21年で2.2%、有料サービスも0.9%にとどまる。
「ニュース離れ」、つまりニュースに対する忌避感や無関心は、「ニュース」とはいかなる情報をさすかを巡る社会的な合意が揺らいでいることの帰結でもある。ここで重要なのは、ジャーナリズム組織だけでなく、社会もまた「ニュースとは何か」の定義づけに関わっている点だ。拙著「ニュースの政治社会学」(勁草書房)でも詳細に論じたので参照いただければ幸いである。
(山腰修三/慶応義塾研究者情報DB)