先日、本人や家族がコロナに罹った二人の友人から立て続けに連絡が入った。
一人は本人が9月にコロナに罹り、その後遺症が今でも続いているらしい。”地球の重力を普段の5倍以上感じる”と言っていて、ちょっと動くだけですぐに息が切れ強い倦怠感に襲われる。横になるしかなく、仕事にならない状態だと言う。
もう一人は、高校生の娘さんが8月にコロナになったが、その後遺症で起きられなくなり、ほぼ寝たきり状態らしい。学校にも行けず、自宅で一日中横になっている。母親が付き切りで看病をしている。
二人とも後遺症専門の病院を受診したが、共通して言われたことは「特効薬や劇的に改善する治療法はない。長く付き合っていくしかない」
一方で同じ職場でコロナに罹った後輩は10日間の療養後、何事もなかったかのように元気に仕事をしている。
出る出ないを含めて、後遺症は人によって様々。二人が共通して言っていたのは「とにかくコロナに罹らないことが第一」
春秋(10月26日) 日本経済新聞
先日、ラジオで聞いたときは思わずふき出した。観客が声を出してもよい条件をライブハウスが決めたという。「1曲の長さの25%まで」「声量は通常の会話を上回らない」。もちろんマスクはした上で。誰が、どうやって時間や音量を測り、違反を見つけるのだろう。
▼早速SNSには茶化(ちゃか)す投稿が飛び交った。皆で連係して順に少しずつ歌えばフルコーラスいける、サビだけならOK、等々。月に1度はライブに行く連れ合いは息巻いて怒っている。この1年、声援もステージとの掛け合いも我慢してきた。けれど本来、歌を口ずさむのは生理的反応であって規制などまるで全体主義――。
▼これは少々極端な意見だが、確かにコロナ禍のルールはしばしば奇妙な光景を作り出した。「学校給食の黙食」「静かなマスク会食」そして「炎天下のマスク」。「第7波」が収まりやっと日常が戻ると思いきや、この冬はインフルエンザとの同時流行に用心せよという。マスクを堂々と外せる雰囲気にはなりそうもない。
▼山本七平は名著「『空気』の研究」(1977年)で、日本社会を支配する空気を壊すには「水を差す」行為が大切であると説いた。水とは「通常性」即(すなわ)ち「それはおかしい」といえる常識のようなものだそうだ。何かを滑稽と感じて笑う感覚も、その種のセンサーに違いない。研ぎ澄まして目を覚ましておきたいと思う。
2020年当時を振り返ると、私の職場や家庭、私自身もコロナへの対応はすべてが極端だったと思う。人類が初めて遭遇するウィルスということもあり、止むを得なかっただろう。
この2年でコロナの実態も当時よりは解明され、対応にもいい意味で揺り戻しがあり、当初よりも対応は緩やかになった。それが自然の流れだと思う。
日本の場合、一気に変えるということがなかなか難しく、漸新的に物事が進んでこそうまくいくという側面が多々ある。
それはそうと、私個人としては、職場でひとりでデスクワークする時や外出時など、必要以外の場面ではマスクはしていない。その場合、とくに外出時、こちらの意識も作用しているが、行き交う人達の視線を感じる。
社会にも周囲にもブログの中の世界にもパトロール好きな人はいるもので、方法や表現はともあれ、ことあれば指摘する機会をうかがっているのかもしれない。
まぁ、もう少しすればマスク無しの状態により近づいていくだろう。
上の「春秋(山本七平)」が言うように、固まった雰囲気や空気感を変えるために「水を差す」のは必要だが、難しい。水を差す行為は基本は個人の感性、感覚から生まれる。
それを変えたいがために水を差したはずが、むしろ対象がさらに頑なになってしまったり、「言いたいことは分かるがやり方が悪かった」と、本質とは違ったことを言われて終わる場合もある。
その進捗の遅さに水を差したくなる時があるが、ライブでの声出しやマスク着用などのテクニカルなところは、時により場面により方針は変わる。
どうあれ、ひとりひとりが変わらず感染防止の基本対策を行い、コロナに罹らないことに越したことはない。
桑田佳祐 feat. 佐野元春, 世良公則, Char, 野口五郎
「 時代遅れのRock’n’Roll Band」(Full ver.)