2022年9月18日
「松山千春 ON THE RADIO」(2)
自身のフォークソングとの出会いを振り返りつつ、日本に「フォークソング」を広めた功績者の一人として浜口庫之助さんを紹介し、称えていた。
浜口庫之助さん(1917年7月22日~1990年12月2日)は日本のシンガーソングライター、愛称は「ハマクラ」。松山千春は番組の中で、浜口さんが作詞作曲した代表曲としてマイク眞木さんの「バラが咲いた」をかけた。
浜口さん作詞作曲の代表曲としては他に坂本九さんの「涙くんさよなら」(1965年)や、島倉千代子さん(1987年)に楽曲提供した「人生いろいろ」の作曲も担当した。
比較的近いところで記憶に新しいのは、2017年末の第68回NHK紅白歌合戦で、当時紅組司会の有村架純がヒロインを務めた同年前期の連続テレビ小説「ひよっこ」特別編が放送され、その主題歌「若い広場」を歌った桑田佳祐が、ドラマ中でも使われた名曲「涙くんさよなら」(1965年)を作詞作曲した浜口庫之助さんを演じたこと。
この日の松山千春の浜口庫之助さんに関する語りは以下のとおり。音源として、ラジオでかけたマイク眞木さんの「バラが咲いた」と、最後に「涙くんさよなら」を鈴木雅之と松下奈緒がカバーしている映像を挿入した。
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(35分14秒~)
このフォーク、フォークソングと言うのは70年代のアメリカの大学生が火をつけたブームなんだけど、日本に入って来た時には、関東と関西にフォークブーム、俺は関西フォークの方、岡林信康、高石ともや…彼らの曲を聴きながらね、“ああ、シンガーソングライターっていいなぁ”みたいなね。
そんな時にいわゆる歌謡曲、演歌の世界にもいち早くフォークソングを採り入れた作曲家、がいました。だから我々裏でずうっとフォークソングを支えてきたんですけど、初めてテレビやなんかで、“これがフォークソングです”って歌われたのが(シンガーソングライター)浜口庫之助さんの作詞作曲、
マイク眞木「バラが咲いた」
(41分16秒~)
まぁ、浜口倉之助さん、歌謡界では作詞作曲で大ヒット曲をずうっと出してたんだよな。それが、これ1966年「バラが咲いた」を作ってマイク眞木さんに歌わせて。フォーク…だから俺はその頃10歳、11歳だろ。ちょうど岡林信康とかそのへんを聴いていた…“フォークソングって違うなぁ”って…そからどんどんどんどん、ある意味俺はフォークソングにハマっていくわけだけどなぁ。
そのうち岡林信康、フォークの神様、だけどな。「ロールオーバー庫之助」っていう曲を作ってな、“浜口倉之助に負けるもんか”みたいなね。
まぁ、そういう時代があったっていうのは非常に懐かしく思います。
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(関連付録)
浜口庫之助は終わらない
2008年3月2日 朝日新聞
(記事抜粋)
古賀政男といえば哀愁を帯びた「古賀メロディー」、服部良一なら軽快な「服部メロディー」。歌謡曲の作曲家にとって、こうした呼び名は勲章のようなものだ。だが、浜口庫之助について、「浜口メロディー」「ハマクラメロディー」とはあまり聞かない。「僕は泣いちっち」「恍惚(こうこつ)のブルース」など典型的な歌謡曲から、フォーク調の「バラが咲いた」や「涙くんさよなら」、ボサノバ調のCMソング、そして「人生いろいろ」まで、あまりに幅広い曲調のゆえだろうか。
■素人のような明快さ受ける
それでも、ハマクラらしいメロディーは確かにある。70年代のポップス界を席巻した作曲家の筒美京平さんは、97年に「好きな作曲家は」と問われてこう答えている。
「バート・バカラック。その前のアメリカの作曲家とは全然違う。突出して面白いメロディーを書く。日本だとハマクラさんが一番」
60年代に4年間マネージャーをつとめた音楽プロデューサーの山田廣作さんは「芸術家は群れをなしちゃいけない。各自の色を持って、それを深めるために努力をするんだ」と何度も聞かされた。
日本にフォークソング/シンガー・ソングライターの時代をひらいたのは66年の「バラが咲いた」だとされる。カレッジフォークの人気者がギターを抱えて自作曲を歌う。だが、この曲は歌ったマイク真木の作品ではなく、ハマクラの作詞作曲だった。後にハマクラはこの歌を「歌詞もメロディーも単純明快、表街道を堂々と歩ける清潔ムードがある」と書いている。この清潔ムードがお茶の間には受けて大ヒットになった。
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