読売新聞は下の「改革 世界は称賛 ゴルバチョフ氏 ペレストロイカ、グラスノスチ」記事に加えて、同日、「ゴルバチョフ氏 冷戦終結の功績は色あせない」と題した社説でゴルバチョフ氏が残した業績の歴史的意義を主張していた。

 

(ミハイル・ゴルバチョフ氏:朝日新聞)

 

プーチン大統領は2005年4月の年次教書演説でソ連の崩壊を「20世紀の地政学上の最大の悲劇」と言った。

 

ソ連崩壊により米ソ二つの超大国のパワーバランスが崩れ、各地で民族紛争が多発し、不安定になった。

 

ソ連を中心としたワルシャワ条約機構が解体(1991年)し、北大西洋条約機構(NATO)は残った。東欧や旧ソ連の国々はNATOに加盟し、ソ連は孤立していった…。

 

プーチン大統領の独自の歴史観、民族観などを前提としつつ、そのプーチン流悲劇の最大の原因を当時ゴルバチョフ氏が進めた改革、ひいてはゴルバチョフ氏自身に見ていることは容易に想像がつく。

 

今回のウクライナ侵攻さえ、その正当性をこうしたプーチン流悲劇に置いているだろう。

 

ゴルバチョフ氏には世界からの高評価とロシア国内での低評価の二面が常に付きまとう。もしかしたらロシア国内では後世であってもゴルバチョフ氏を評価することはないかも知れないが、個人的な願いとして、いつか必ずゴルバチョフ氏がやったこと、やろうとしたことをロシアの人々が認める日が来る―そう信じていたい。

 

「生ける間は、人間から憎悪や愛執は除けない。時は経ても、感情の波長はつぎつぎにうねっていく。(…)
 波騒(なみざい)は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを」

(吉川英治 著「宮本武蔵」最後のくだり)

 

 

改革 世界は称賛
ゴルバチョフ氏 ペレストロイカ、グラスノスチ
 

2022年9月1日読売新聞

 


 30日に91歳で死去したミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領は、帝政ロシア、ソ連の最高指導者につきまとう冷酷なイメージを覆す笑顔と柔軟性を武器に、硬直化したソ連の内外政策を転換した。第2次大戦後、半世紀近くに及んだ東西冷戦を終結に導いた。ゴルバチョフ氏は国際的に称賛を浴びる一方、1991年に超大国だったソ連を崩壊させた張本人として、後継国家ロシアでの評価は低い。

◆90年 ノーベル平和賞 

 ゴルバチョフ氏は85年3月、54歳でソ連の最高指導者ポストだった共産党書記長に就任した。ソ連は当時、アフガニスタンへ侵攻中で、ソ連を「悪の帝国」と非難した米国と軍拡競争を繰り広げていた。ゴルバチョフ氏の書記長就任時、国家予算の約40%を軍事費に充てていたとの指摘もある。内外政策の転換に踏み切った背景には、ソ連の経済と社会の疲弊が深刻で改革が急務だったことがある。

 米欧との和解にかじを切った「新思考外交」では、85年にレーガン米大統領(当時)とスイス・ジュネーブで初会談に臨み、核軍縮に道筋をつけた。89年11月に「ベルリンの壁」が崩壊し、翌12月には米ソ首脳による冷戦の終結宣言、90年の東西ドイツ統一の実現にも貢献した。この年、ノーベル平和賞を受賞した。

 国外では「ゴルビー」との愛称が定着し、政界引退後の2000年代にはフランスの高級ブランドの広告に登場したこともある。

 ゴルバチョフ氏が共産党の再建を目指し、86年に掲げた「ペレストロイカ(立て直し)」は日本でも流行語になった。共産党の一党独裁を放棄し、90年に大統領制も導入した。

 ソ連構成国だったウクライナで86年に発生したチョルノービリ(チェルノブイリ)原子力発電所の爆発事故では、事故を隠して被害が拡大したことを批判され、「グラスノスチ(情報公開)」を加速させた。言論の自由拡大や民主化の推進は、ソ連崩壊後のロシアで民主化や人権運動の機運が醸成される種をまいた。

 ゴルバチョフ氏自身は91年12月のソ連崩壊と同時に失脚し、政治的影響力が回復することはなかった。露国営テレビは8月31日、経済学者の見方として、「(ゴルバチョフ氏が)何もしなくてもソ連は10〜15年は存続できた」と報じた。プーチン大統領もソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的悲劇」と評している。

 ゴルバチョフ氏の政敵で新生ロシアのエリツィン初代大統領が2007年に死去した際には国葬が営まれた。タス通信によると、ロシアの大統領報道官は8月31日、ゴルバチョフ氏の国葬を執り行うかどうかについては「まだ決まっていない」と述べた。国葬が行われた場合のプーチン大統領の参列についても未定という。

 〈語録〉 


◆冷戦 過去のものに/権威主義 正しいと思わない 

 「我々は社会のあらゆる分野における根本的なペレストロイカの道に踏み出した」(1986年4月8日、トリヤッチでの演説で)

 「中短距離ミサイルを廃棄する条約の調印は歴史的出来事と呼ぶことができよう。重要なのは核軍縮の真のプロセスにおける新しい段階を切り開いたことだ」(87年12月10日、ワシントンでの米ソ首脳会談で中距離核戦力〈INF〉全廃条約に調印後の記者会見で)

 「冷戦時代から新しい時代へ第一歩を踏み出した。冷戦や精神的不信感は過去のものにしたい」(89年12月3日、冷戦終結を宣言したマルタでの米ソ首脳会談の後の記者会見で)

 「私は不安とともに、しかし、希望と皆さんの賢明さと精神力への信頼とともにこの地位を去ろうとしている」(91年12月25日、ソ連大統領辞任の演説で)

 「プーチン大統領は、エリツィン(政権)後の状況を安定化させる上で大きな役割を果たしたが、権威主義的な手法が用いられた。ロシアで権威主義的な場面が増えているが、正しいとは思わない」(2014年11月20日、自身の回想記出版に関する記者会見で)

 「(14年にロシアが併合したウクライナ南部)クリミアでは大多数がロシアとの一体化を望んだ。もし私がプーチン氏の立場ならば、同じことをしただろう」(16年5月22日、英紙サンデー・タイムズとのインタビューで)

 「相互の尊重と互いの利益への考慮を基礎にした交渉と対話が、深刻な矛盾や問題を解決する唯一の方法だ。我々は対話プロセスの再開に向けたあらゆる努力を支持する」(22年2月26日、ロシアのウクライナ侵略開始に関しゴルバチョフ財団が発表した声明で)

 ◆西側と露 正反対の評価 

 ◇袴田茂樹氏 青山学院大名誉教授 

 民主化を進めた改革者であるゴルバチョフ氏に対し、西側諸国では肯定的な見方が一般的だ。ロシアでは共産主義体制の崩壊を生み出した人物として否定的な評価が多い。

 (旧ソ連時代)ロシア人には、アメリカと競った超大国としての自負があった。ソ連崩壊後は多くの混乱があり、1990年代は屈辱の時代と捉えられている。この混乱はゴルバチョフ氏の改革運動の結果という見方が根強い。

 プーチン露大統領はゴルバチョフ氏の改革を肯定的に見ていない。プーチン政権下では、同氏は欧米の手先という見解も広まっていた。

 プーチン氏はソ連の崩壊を「20世紀最大の悲劇」と嘆き、ウクライナ侵略の根拠にしているとみられる。ゴルバチョフ氏は当初、早期の戦闘終結を呼びかけ、侵略に批判的だったが、ゴルバチョフ氏の死が侵略にブレーキをかけることにはならないだろう。

 現在のロシアではウクライナ侵略を巡って反戦を呼びかけるなど政府を批判すること自体が犯罪扱いされる。こうした状況下で、ゴルバチョフ氏も批判を口にすることが出来なくなった。

 情報公開(グラスノスチ)を進めたゴルバチョフ氏が晩年、自身の発言を統制されたことは歴史の皮肉だ。(国際部 佐藤友紀)

 ◆自由 プーチン氏が骨抜き 

 ◇ヴラディスラブ・ズボク氏 英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授

 ゴルバチョフ氏は二つの顔を持つ。ソ連圏外では、力の行使を放棄した人物だった。中・東欧からのソ連軍撤退に同意し、東西ドイツ統一とドイツの北大西洋条約機構(NATO)加盟の必然性を受け入れた。これら全てを欧米諸国は深く感謝している。

 しかし、冷戦下で安定していた第三世界にとって事情は異なる。(途上国では)ソ連崩壊で国際秩序が複雑化したことを悔やむ声も聞こえた。

 モスクワでゴルバチョフ氏は、ロシアを最大の地政学的敗北に導いたとの評価がある。プーチン氏も力の行使に失敗した無能な指導者とみなしているだろう。

 私はゴルバチョフ氏を「改革に着手した不運な船長」と表現している。経済改革は失敗し、(国家の)航路を修正できずに船を氷山に突っ込ませてしまった。

 ゴルバチョフ氏は、常に楽観・理想主義者であり、欧米の信頼を勝ち取ろうとした。プーチン氏は信頼を勝ち取ろうとしたが、次第に不信感と敵意が表に出て、ウクライナ侵略につながった。プーチン氏はゴルバチョフ氏が進めた報道の自由や開放性を骨抜きにした。その結果、ゴルバチョフ氏が常に立っていた場所とは反対の極にいる人物になったと言える。(ロンドン支局 池田慶太)