2022年8月28日放送の「松山千春 ON THE RADIO」
「本来俺はバスケット部だからな。ギターで歌を歌う(…)それはあくまで趣味としてやってて。本業は、俺はバスケット。学業よりもバスケット!っていう状態でね、やってたからなぁ。そりゃぁ、エピソードは幾つもあるよ」
と切り出し、中学、高校とバスケット部に所属し熱中していた当時のエピソードを約6分間、語った。
(松山千春写真集「激流」より/足寄高校体育館)
ご存知のとおり、松山千春はバスケットのことについてはこれまで何度も語ってきていて、かつてテレビに出演した際にはスタジオで自慢のロングシュートを披露したこともあった(見事に決めていた)。
松山千春がバスケットを始めたのは小学校五年生の時。自伝『足寄より』にバスケットについて多く書き残している章は「第3章 足寄中学校」と「第4章 足寄高校」。
それよりも前の章では「第2章 足寄西小学校」に
「(五年生の時に)合唱団とだぶって、バスケットをやり始めたわけ。こんなにおもしろいスポーツがあるか、と思った」(58㌻)
と書かれていて、ここが同書で初めて「バスケット」という言葉が出てくる箇所。
その後は、第3章「足寄中学校」の68㌻に
「バスケットも花開いてきた。一年生からやったわけだけど、そのころは鈍かった」と書き出し、数行書かれている。
(同上)
なぜ松山千春がバスケットを始めたのか。富澤一誠著『松山千春―さすらいの青春―』には、おそらく本書の取材時の松山千春の発言だと思うが、書かれている。
「体が弱かったから、バスケット、もっとも小学校の頃はポート・ボールと言っていたけど……を始めたんだ。オレは体が弱かったわりにはけっこう飛びまわっていた。だからこそ、バスケットというものを知ったとき、それが一気に発散したんじゃないなか。(…)(中学時代は)まだ本格的ではなかった。バスケットしかないと思ったのは高校のときかな」(50㌻)
「大げさに言えば、オレの存在証明かな。小さいときから体の弱かったオレだが、それを直すために始めたバスケットだったが、いつしか、ボールをシュートしてゴールに入れるということが、オレの人生のように思えて来た。とにかく、きれいなシュートを決めて他人を感動させることは感激だった(…)」(57㌻)
(松山千春/コカ・コーラCM1983年)
『足寄より』の中でバスケットに関する記述が最も多いのは第4章「足寄高校」。28日のラジオで語った予選の内容、帯広柏葉高校に負けたことなど当時のトーナメントの様子が95㌻から書かれている。
話しを『足寄より』の第3章「足寄中学校」に戻し、69㌻に次の記述がある。
「(俺が)バスケットに燃えたのは、高橋勝(まさる)先生のせいもあるな。これがすごくいい先生。足寄中学の体育館はすごいボロなんだよね。生徒が帰ったあと、高橋先生はボロ体育館を黙々と手入れしてるんだ。ラインなんか引きなおして。先生のそんな姿を見たら、この先生のためなら、死んでもやんなくっちゃと思ったね」
2013年5月14日、松山千春コンサート・ツアー2013【夢破れて尚】、東京国際フォーラム2日目公演に参加した。一部ラストは「途上」。その直前の松山千春の語り。
どの会場だったのかは言っていなかったと思うが、上に書いた中学時代の高橋勝先生がご夫妻で松山千春のコンサート会場に足を運ばれたそうだ。
「高橋勝先生夫妻が来てくれた。勝先生は中学の時の恩師。俺はバスケットをやりたかったけど、うちは貧乏でどうしょうもなかったから、ジャージも買えなかった。勝先生は『千春君、着るものがなければ私服で練習してもかまわないし、試合では学校でユニホームを用意するから頑張れ』と励ましてくれた。嬉しかった。
奥様のえいこ先生(漢字表記不明)は、高校の先生だった。コンサートが終わって、『千春君、楽しかった』と喜んでくれた。
勝先生に『千春君、ちょっと』と呼ばれた。
『実は、妻は二年前から痴ほう症で、リハビリして今日のコンサートに来た。一緒にコンサートを楽しめて本当によかった。一時は、私のこともわからない状態だった。あんなに楽しそうな妻を見たのは久しぶりだよ。ありがとう』…
お二人を見送った。
『勝先生、えいこ先生、今日はありがとうございました』と言って頭を下げた。その頭が上げられなくなった。
『勝先生、どうか癌が転移しませんように。えいこ先生、一日でも長く勝先生のことを覚えていてください。あなたの教え子の中に、松山千春という歌を歌っている生徒がいるということを覚えていてください。先生はあんなに凛々しかったじゃないですか。もしも神や仏がいるのなら、どうか先生ご夫妻の行く末を見守って欲しい』
そう祈っていたら、頭が上げられないほど、涙が溢れた。またコンサート来て、楽しい時間を過ごせますように」
(語りは要旨/自身の記憶をベースに、夢野旅人さんブログと照会)
この後すぐに「途上」の前奏が流れ始めた。具体的なエピソードを交えた語りが、抽象性の高い美しい言葉で綴られた歌詞の世界に見事に包まれた。
この場にいて本当によかった、と思うシーンのひとつだった。
恩師・竹田健二さんに限らず、出会った方々をずっと大切にする松山千春の生き方がよく現れている語りだった。
松山千春―「途上」(1990年)
___
出会えば別れることは必然。その出会いは偶然に見えて、すべて必然だと思っている。が故に、出会った人たちを別れるまで大切にしたい。
出会った人が苦しんでいたら、すぐに駆け付けて話しを聞いてあげたい。言葉をかけてあげたい。人生の節目を迎えた人がいたら一緒になって喜んでお祝いしてあげたい。
もし自分自身が人に何かしてもらったら、そのことを絶対に忘れない自分でいたい。いただいた恩を返していける自分でありたい。
18歳の時に決めた生き方をもう一度確認した。