2022年8月14日
「松山千春 ON THE RADIO」(3)
8月27日(1977年)が松山千春を見出し、この世界に送り出してくださった恩師・竹田健二さんの命日(享年三十六)であることから、番組全編の中で竹田健二さんとの思い出や当時の出来事を語った。
節目節目で、自分を育ててくれた人々に感謝を捧げることはできるようでなかなかできるものではない。デビュー以来変わらず恩師を慕い、感謝を捧げる松山千春の姿勢は本当に立派である。
この日の松山千春の、竹田健二さんについての語りを2回に分けて掲載する(2回目:完)。

(22分00秒~)
昭和52年1月25日、「旅立ち」でデビューするわけですが。その年の8月8日に初めてのコンサート。そして忘れもしない8月27日。本当は函館市民会館でコンサート、竹田さんと一緒に行く…はずだったんだけど、竹田さんが亡くなってしまった。だからもう、その先のことは何も考えることができなかったなぁ。“これからどうしよう…”。
ただ、竹田さんがスケジュール切ってくれたコンサート、残りやっていかなきゃならないし。あと、ラジオの番組もちゃんとやっていかなきゃならないし。

(24分00秒~)
レコードを出してからかねぇ?福岡、長崎…前も言ったことあるけど、竹田さんと一緒にプロモーションで行ったなぁ。で、竹田さんって厳しい人でさぁ。もう、とにかく、北海道のレコード会社の連中は竹田さんの名前を聞いただけでみんな身震いするぐらいね。
だって、テイチクだろうがコロムビアだろうが、キャニオンだろうが、どこのレコード会社もな、「推薦盤」ってあるじゃん。“今月の推薦盤は我が社はこれです!“って持って行くと竹田さんが聴くわけだ。で聴いて、いきなりレコードを袋にしまって、ブンっと捨てるんだ。
「君の会社はこれが推薦盤なのか?これ以上の曲はなかったのか?君んとことは付き合いづらくなるね」
…そういうことを言う人なんですよ。ほんとに、ある意味音楽にはもう~厳しかった。そんな竹田さんがなぁ、なんで俺みたいな者にねぇ、声をかけてねぇ、で、番組を一緒にやってくれるという考えに至ったのか、今でも分かんないなぁ。
あとは、竹田さんと仲がよかったのが、RKB毎日放送ラジオの野見山(實:まこと)さんっていうディレクターの方で。まぁ、野見さんもついこの間(2018年5月30日)、亡くなりまして。そうやって考えたら、竹田さんと野見さんって似てる部分が、あったなぁ。で、二人が仕掛けてヒットさせた曲(由紀さおり「夜明けのスキャット」)があるんだよ。

(野見山實さん:西日本新聞)
(31分19秒~)
デビューした当時に、北海道だけではなく全国へ、コンサートやなんかするから、全国のラジオ局のディレクターの方々にちゃんとご挨拶して来いよ、って言われて。(各地のディレクターを紹介する)こういう名物ディレクターのみなさんに支えられながら、デビューしたて、よちよち歩きだった俺をね、一人前にしていってくれたんですけど。(~33分18秒)
(34分15秒~)
いろんな人達といろんな関わり合いを持っていたんだけど。STVラジオだからこそ、付き合うことができたのが、坂本九さんです。坂本九さんはSTVの、テレビな、『ふれあい広場・サンデー九』という福祉関係の番組なんですけどね。毎週日曜日、やられていて。まぁ、こっちは日曜日のラジオだしな。よくお会いして。
(かつてSTVの前にあった喫茶店)そこでお茶飲みながらな、「いやぁ九さん、福祉関係のこと、すごい一生懸命やられていますよね」「千春君はまだ歌い手になって間もないから分からないだろうけど、そのうちきっと目的が見えてくるよ」…そんなことを言われたことを思い出します。(~35分40秒)

(53分20秒~)
自分も、コンサートのこととか、まぁ、新しい曲ができるかどうか、いろいろ頑張ってみます。
ほんとに、デビューする前から、また、デビューしてからこうして長い間、ラジオの番組で、またコンサート、いろんなかたちでお付き合いいただいて、ほんとにみなさん、ありがとうございます。
今回、最後に聴いていただく曲は、俺が初めて竹田さんと会って、そしてフォーク音楽祭北海道大会、結局頑張って歌ったんだけど、予選落ちしました。その時のテープがSTVには残っておりますんで、その曲でお別れです。
俺にとって…、竹田さんにとって…デビュー曲となりました。今でも…歌うとなると…緊張、するな。松山千春「旅立ち」
松山千春ー「旅立ち」(1982年真駒内ver.)