2022年8月7日のラジオ「松山千春 ON THE RADIO」では、翌8日が自身がファースト・コンサートを開いた記念日(1977年8月8日)であることから、恩師・竹田健二さんとともに作り上げた最初のステージについて語っていた。
またファースト・コンサートの約1か月半前にリリースされた2枚目のシングル「かざぐるま」、その選定経緯についても語った(以下)。この経緯はこれまで何度か語っている。
明日(8月8日)は自分がデビューして、最初にやったコンサート、北海道厚生年金会館、今はもうね無くなってしまいましたけどね。そこで1977年8月8日、初めてコンサートをやらせていただきました。
1977年1月25日に「旅立ち」でデビューしました。で、B面が、あのころレコードだからな、「初恋」。ほいで2枚目、竹田さんがまだ存命だったからな、元気だったからな。
「2枚目のシングルは、竹田さん、これはあれですか?『銀の雨』でいくんですか?」「いや、『かざぐるま』でいく」
「えっ?どうしてですか?ノリとしては『銀の雨』の方がいいんじゃないかなって思うんですけど」
「千春君、勘違いするな。君はフォークシンガーだぞ。一時(いっとき)だけ売れて、そしてもう、”今は何をしてるんだろう、あの人は“…そんな歌い手になりたいのか?2枚目のシングルは『かざぐるま』でいく。そして『旅立ち』でデビューしたけど、松山千春はこういう大きな歌もしっかり歌えますよ、っていうところをみんなに知っていただこう」
じゃぁ、初めてコンサートをやってから明日でまる45年になりますんで。
竹田さんが「デビュー曲は『旅立ち』、次のシングルは『かざぐるま』だぞ」って強く念を押された松山千春「かざぐるま」
「かざぐるま」に込めた松山千春の思いは自伝「足寄より」にも書き残している。
昭和50年(1975年)、約一年間の北見での生活から足寄に戻り、全国フォーク音楽祭に出場したが全道大会で落選。この帰りがけに恩師・竹田健二さんから「松山、ひょっとしたらラジオで使うかもしれない。そうなったら出てこれるか」(原文まま/「足寄より」137㌻)と言われ、その後のデビューへの最初の道筋が作られた。
落選した後は足寄で父が発行していた「とかち新聞」の集金と、パチンコに勤しんだ。足寄町の人たちの間では悪評が立ったという(同書138㌻)が、松山千春は絶対的な自分の基準で生きていた。
「俺はなんと思われようと平気だったね。(…)俺はブラブラしてるつもりはかけらもなかった。俺の人生はまだ始まっちゃいない。(…)おやじは好きでこの仕事を始めて、打ち込んできた。だからこの好きな仕事を最後までまっとうさせてやろう。そのためにおやじの仕事を手伝うんだ。おやじが死んだら、それから俺の人生が始まる。俺のことはそれから考えればいい、ってね」(同書138㌻)
この頃、松山千春の親友・鈴木幸弘さんが農業学校から帰ってきて足寄開拓農協に勤め始めた。(松山千春、鈴木幸弘さんや)「土田とか佐藤とかと顔をそろえて、ちょうど四人。麻雀が復活するのも無理ない」(同書140㌻)
「でも、欲求不満はあったね。歌えないってことがね。歌う場がない。これは煮つまる。で、そんなときは曲を作るんだ。『風車』(原文まま)はそのころできた曲。恋愛を材料にはしてるけどね、まわれまわれって、欲求不満を吹っ飛ばそうとしたのが、モチーフになってる。めいっぱい声はりあげてね」(同書140㌻)
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松山千春コンサート・ツアー2007 「自壊」
オープニング。ステージの後方から強めのライトがあたり、白い幕の後ろ、松山千春がステージセンターに立っていてシルエットが映る(客席から見える)。そんな演出の中、フルバンドで「かざぐるま」を歌い始めた。
客席で、”松山千春のあのシルエットを出す演出はどうかな?また、その演出と「かざぐるま」が合っていないな”と思ったのを明確に覚えているが、一番近いところで、フルコーラスで歌われたのがこの時だろう。
その500万倍、いやいや何十倍も強く記憶に残っているのが1986年8月29日、よみうりランドEAST(当時/2013年閉鎖)で開催された松山千春デビュー10周年記念ライブ、弾き語りでの「かざぐるま」。
(よみうりランドEAST:当時)
この日の模様の一部は「TABIDACHI」としてパッケージ化されていて、「かざぐるま」も収録されている。
本当に感動した。この日は「夜明け」や「大いなる愛よ夢よ」なども歌っているが、それ以上に、この日一番の感動はこの「かざぐるま」だったと言ってもいい。
当時大学1年。アパートに戻って何度も松山千春の真似をして弾き語りしたのをよく覚えている。
(弾き語りで「かざぐるま」を歌う/1986年)
ちなみに、私の記憶ではデビュー10周年前後ぐらいからかな?松山千春が自分で「俺はギターが下手だ」と頻繁に言い始めたのは。あの頃、意識してストロークを使わなくなった感もあった。
高度なテクニックはもともとなく、お世辞にも上手いとは言えないが、デビューから6~7年頃までは自信を持ってギターを弾いていたと思う。そのため、私が聞く限りでは、松山千春が歌に込めた感情がそのままギターにも乗り移ったような、独自の世界がありそれがよかった。
「かざぐるま」か「銀の雨」かの二択では、個人的な好みは「銀の雨」だが、竹田健二さんの判断とは別の意味で、「かざぐるま」がA面でよかったと思っている。
松山千春のファンでない方を含めて認知度は圧倒的に「銀の雨」。「大空と大地の中で」同様、シングルA面ではない曲が、その素晴らしさゆえ、時代を超えて多くの人々に親しまれている、そうした楽曲の存在意義的なことで言えば「銀の雨」がB面でよかったと。
ともあれ、今日も暑い。こういう夏の日差しや重さを感じる風をうけて思い出す松山千春の歌は、アルバム『明日のために』であったり、よみうりランドEASTで松山千春が歌った歌たち。
松山千春―「かざぐるま」(1986年8月)
(Cover写真は北海道厚生年金会館だが、音源の「かざぐるま」は
よみうりランドEASTでのもの)
私の心は 貴方の うでの中
貴方の心は きままな 風ね
貴方の言葉に 心乱れて
とまどう私は 風車
まわれ 風車 風車 いつまでも
まわれ 風車 風車 いつまでも
貴方にさよなら いわれたのなら
生きては行けない 私だから
いつでも貴方に きらわれぬよう
全てを捧げた 私だから
まわれ 風車 風車 いつまでも
まわれ 風車 風車 いつまでも
まわれ 風車 風車 いつまでも
まわれ 風車 風車 いつまでも
(山形市内/2022年8月10日 筆者撮影)