吉田拓郎 76歳「ラストアルバム」全曲が充実 

2022年7月2日(土)読売新聞(週刊エンタメ)

 

 

吉田拓郎、76歳。1970年のデビュー以来、歩み続けた音楽の道は決してなだらかではなかった。新作「ah-面白かった」(エイベックス)は“ラストアルバム”と位置づける。「いいエンディングができた、そんな充実感がある」。「やめるな」と言われても、今は言うことが決まっている。「ほっとけよ」――。(文化部 池内亜希) 

※記事文中の吉田拓郎発言強調は虹野付す

“音楽がおりてきた”新作「ah-面白かった」
 目の前にいる吉田拓郎は、どこかすがすがしい様子だった。「当初思っていたよりも、数倍いいものが出来ている。そんな実感がありますね」と新作への自信をのぞかせる。

 ラストアルバム制作を決意したのは、コロナ禍の影響でライブツアーを断念せざるを得なくなった2020年。21年から作業を始め、収録の9曲は、詞も曲もアレンジも全てが半年間で出来上がった。

 「こういう曲を作ろう、こんなタイトルでやってみようと思いつくと、詞もメロディーもすらすら浮かんでくるし、同時にアレンジまで出てくる。不思議でした。以前、竹内まりやが何かの番組で、『若い頃は音楽がおりてくる』と言っていた。確かにそれは僕もあったんだけど、久しくおりてきてなかったんです。今回はそれだったのかな」

 これまでのアルバムは、懸命に取り組んでも必ずしも満足のいくものばかりではなかったという。だが、今回はどの曲も充実したものに仕上がった。原動力には若者からのエネルギーがあった。


「若い時は、そんなに共有しなくていい」
 「若い女優の方が僕のファンだと聞いた。驚いたけど、その子に対して恥ずかしいことは出来ないという思いにもなった。米津玄師君やあいみょんさんらの音楽を聴いていて、その自由さに、なるほどと感じることも多い。例えば、あいみょんだったら、ボーイフレンドがガールフレンドに相手にされない時、ソファに寝そべっているような姿を描いている歌詞がある。僕だったらそうは表現しないですよね。ボーイフレンドがソファに寝そべっていたとしても、『それじゃあ、歌にならないよなぁ』って思ってしまう。でも、あいみょんがやると、リアリティーがあって歌になっていて、なんかいいなってなるんですよ。やっぱり若い人ってすてきだし、刺激になる」

 

「若い人には、若さを生かして存分に暴れてもらいたいですね。怖がったり、反省したり、後悔したりする癖をつけなくていい。どうせこれからいっぱい反省するし、後悔するから。ネットには、『共有する』という感覚がありすぎちゃって。そんなに共有しなくていい。若い時はオリジナルでいいんじゃないかな。僕らが若かった時代は、『30代以上を信じるな』という合言葉があった。だから、70代の僕が言うことなんか話にならんのだけどね(笑)」

「奇跡の出会いだった」KinKi Kidsも参加
 今作には、30歳以上年下の人気デュオ、KinKi Kidsも参加した。2人とは1990年代、フジテレビ系音楽番組「LOVE LOVE あいしてる」で共演してからの仲だ。堂本剛は、「ひとりgo to」のアレンジとギターを担当。

 「これが、堂本剛の音楽かとびっくりした。ドラムやベース、リズムセクションの使い方が斬新だし、コーラスも不思議なところで入る。新しいというか。聴いていく度に不思議とはまっていってしまう音楽なんですよね。番組では、彼らにギターを教える企画もありましたけど、あんなのは何の役にもたっていないほどのすごさですよ」

 堂本光一はジャケットの題字を書いた。吉田たっての希望だった。

 「光一は嫌々だったでしょう。本当は、音楽で参加したかったのかな。でも、普通なことじゃつまらないなと思って、お願いしたんです。よく彼が言っていた口癖ですけど、『なんでやねん』だったと思います。光一はステージの演出も出来て美意識がすごいんだけど、味のある字だという記憶があってね。あの頃は、それぞれこんなミュージシャンとエンターテイナーになるなんて想像もしていなかった。今は、奇跡の出会いだったと思いますね」


“メジャー”の芸能界との距離感「どっぷりは嫌」
 一方で、盟友にも参加を呼びかけた。70年代からつかず離れずの小田和正。切なさを感じさせる「雪さよなら」を一緒に歌った。

 「オフコースが売れていなかった頃からの付き合いで、今、遠慮することなく話ができる、ただ一人の音楽の友。よく楽屋に『ピックちょうだい』ってやってきて、『貧乏なんだな、お前』なんて言ってましたね。今回、ラストだから、歌ってくんねぇかなという思いはあって。録音当日、『一緒にやんない?』って言われて、『俺とお前でハモるの?!』って思いながら、一緒に歌いましたよ。小田と僕は、いわゆる『メジャー』の芸能界との『距離感』が一緒。付き合いはあるけど、どっぷりは嫌っていう感じで。小田なら、ドラマの主題歌はやり、僕なら、アイドルの曲は作る。ずるいっちゃずるいんだけど、節度ある距離感で、自分たちの音楽を突き通してきたと思う」

 

 アルバムのラストを飾るのが表題曲だ。ストレートに「ah-面白かった」と、グッと力のこもった声を響かせて幕を閉じる。全体を通し、制作は、過去を見返しながら進めた。20歳で地元・広島から出てきて、いいことも悪いこともあった半世紀。旅立つ時は「ah-面白かった」と言っていたい。

 「20歳で東京に出てきて50数年。まんべんなく幸せだったかと言うと、決してそうじゃない。アンラッキーな日もあったし、私生活でのトラブルもあったし、紆余(うよ)曲折。アンハッピーもあったけど、今はどうかと尋ねられれば、めちゃくちゃハッピー。僕は幸せな人生を歩んでいると自覚している。過去が、今の自分を生み出してくれているんですよ」


武道館ライブで「帰れ」…そんなバカな
 最初に音楽を志したのは、中学生の頃だ。東京でジャズピアノをやっていた兄が帰省した時、連れてきた美しい女性に目を奪われたという不純な動機からだった。ウクレレを買ってもらったが、高3でボブ・ディランの曲を聴き、ギターを手に取った。バンドでは“日本のビートルズ”を目指したが、容易にはいかない。東京の芸能プロダクションに売り込みに行っても、すぐに帰されてしまった。当時は、フォークソングブームが始まった時代。興味も知識もなかったが、ギター一本で歌い始めた。

 「フォークシンガーと話をしていても話は合わなかった。彼らは、『マイナーでいい』って言う。でも、僕は大きな夢があった」

 ボブ・ディランたちが、音楽でアメリカンドリームをつかむ姿があこがれだった。1970年のデビュー後、72年に「結婚しようよ」、「旅の宿」が大ヒットするが、フォークのリスナーはそれを許さなかった。

 「ギター一本でプール付きの豪邸に住むって、広島を出てきた。でも、客は『四畳半に住んでろ』と怒る。日本武道館でのライブ。観客総立ちで『帰れ』と言われた。そんなバカな、です。ヒットを出したくて広島を出てきて頑張っているのに、理不尽だとも感じた。それは音楽ファンが言うことなのかとも。2曲とも世界観が甘いと言われてね、異様な時代であったことは間違いない。ただ僕は、学生だけにウケていればいいとか、そんな気持ちはなかった。1人より10人――1000人より1万人に聴いてもらいたいし、それで豊かな生活を送りたかった」

 

 音楽界の主流に爪痕を残す。有名歌手たちへの楽曲提供は、喜んで引き受けた。74年には「襟裳岬」を森進一が歌い、日本レコード大賞に輝いた。「大祝杯を1週間くらいあげて、『レコード大賞とったぞ!』って。小躍りする気分でした。歌謡界をぎゃふんと言わせたいという思いがあった。僕らの音楽が社会的に認識され、チャートに入る。それは僕にとって理想だった。これで新しい風が歌謡界にも吹いたと思っています」

 75年には、音楽フェスの元祖ともいわれる「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」(静岡県)を開催。「実は、とても恐怖心があった。また『帰れ』って言われたらどうしよう。今度の相手は5万とか6万人だぞって。でも、実際はみんな一緒に歌っていたんですよ。あぁ、時代は変わったと思いましたね」

 そのほかにも、人がやっていないことに次々挑んだ。「当時はね、コンサートツアーという形式がなかったんです。アメリカでボブ・ディランが全米ツアーをやっていて、それが素晴らしかった。バンドも照明も音響も全て込みで一つのセットにして、そのまんま各地を巡るという形で、これを日本でもやんなきゃだめだって思ったんです。それで、照明屋や音響屋とかみんなで東京でリハーサルをして、そのまんま、道具を4トン車とかに詰め込んで日本中を回るという形を企画した。俺たちの音楽を理解してくれる学生がイベンターのようになってくれて、各地でコンサートを行うことができたんです。若い連中は喜んでくれた。本当に楽しかったね」

 当時は、「次はなにが出来るか」と、ずっと探していた。

 「やる以上は新しいことがしたかった。人がやっていることをまねたんじゃ勝てない。だって、森進一に勝てないでしょ、僕が演歌を歌っても。吉田拓郎の世界っていうのをどうやったら評価してもらえるのかと、新しいことで勝負していました。今は、何が新しいのかが分からなくなってきた。だから、若い人がやっていることを勉強するんです」

 

「自分が理想とするコンサートは、もう無理でしょう。喉の衰えは隠せない。もちろん、ギター一本で静かな曲ばかりやれば、あと10年はやれる。でも、僕は嫌だ。楽しそうじゃない、ちっとも」

 2019年のライブツアーは、満足感にあふれた。心地よい演奏や歌。シャウトも何曲もした。だが裏腹に、同じことが来年も出来るかと不安を抱いた。20年のツアーを『ラスト』としよう。そう思っていたが、コロナ禍に見舞われた。「19年は、ライブでシャウトが出来るギリギリでした。そういう意味ではやりきっていて、悔しさはない。レコーディングでは出来たとしても、ライブは一発勝負だから。もう小気味いいシャウトにはならないと思うんです」

 しかし、今、正直な思いを吐露する。「ちょっとだけね、ちょっとだけ思ったのが、このアルバムをね、歌いたい。他の曲は歌いたくないけど。このアルバムの曲をギター弾きながら歌ったならば、かっこいいだろうと思うね」

 今後の人生、音楽と距離を置くのかと問えば、それは否定する。ただ、音楽をビジネスにしていくのかは「分からない」。

 「音楽は僕を育ててくれたわけだし、やっぱり最後まで一緒にいる存在ですよ。今だって、ほら、“ギターだこ”が消えないんですよ。家で日々、弾いていますから」

 

 

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吉田拓郎さん、第一線から退く意向 テレビ出演、来月引退 

2022年6月25日 朝日新聞(夕刊)

 シンガー・ソングライターの吉田拓郎さん(76)が、7月21日に放送する「LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP」(フジテレビ系)を最後に、テレビ出演から引退する。同局を通じて発表した。12月には定期出演していたラジオ番組も終了する予定で、関係者によると、年内をもって音楽・芸能活動の一線から退く意向だという。
 番組出演について、吉田さんは、フジテレビを通じて「とてもすてきな有終の美を飾れそう」などとコメントしている。
 吉田さんはすでに今月発表の新作アルバムを「ラストアルバム」と位置づけている。また、予定していた「ラストツアー」もコロナ禍の中で中止となり、ライブ活動を終了することを自身のラジオ番組で示唆。2020年から月に一度続けていたラジオ番組「吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」も年内で終了することを本人が明言している。
 吉田さんは、1970年に「イメージの詩/マーク2」でデビュー。「結婚しようよ」「旅の宿」などがヒットしたほか、森進一さんに提供した「襟裳岬」は日本レコード大賞を受けた。卓越したメロディーセンスと字余りを多用した歌詞で、「拓郎節」といわれる世界観を構築し、70年代を象徴するシンガー・ソングライターとして、カリスマ的な人気を得た。(定塚遼)

 

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「結婚しようよ 僕の髪はもうすぐ肩までとどくよ」(春秋) 

2022年6月29日 日本経済新聞
 「結婚しようよ 僕の髪はもうすぐ肩までとどくよ」。学生運動が冷めた後、等身大の日常を繊細にすくい取った吉田拓郎さん。エレキギターにサーフィンと、大衆の憧れを次々体現した加山雄三さん。時代と相照らしつつ、芸能シーンを引っ張ってきたふたりだろう。
▼そんなベテランが近く、相次いで一線を退くという。加山さんによれば「歌えなくなってからではなく、歌えるうちにやめたい」。吉田さん76歳、加山さんは85歳だ。まだまだ現役のパフォーマンスをと期待していたファンには残念な知らせだが、出口を見さだめ、みずから「引き際」を決断した姿はすがすがしくも映る。
▼昭和から並走してきた世代にも、人生の引き際は抜き差しならない問題だ。団塊世代は今年いよいよ後期高齢者層に足を踏み入れ始めた。未体験のゾーンへと急加速する高齢化で、医療や介護は十分に行きわたるのか。後に続く現役組も、どこまで働き、いつからどれだけ年金を受け取るのか。社会保障への不安は根深い。
▼人生100年時代、働き続ける人、退く人、一人ひとりが自分なりの引き際を選びたい。酷暑の選挙戦となった参院選で、そのあたりも熱い議論があったらいい。「どれだけ歩いたか考えるよりも しるべ無き明日に向かって進みたい」。吉田さんの「元気です」の一節だ。しるべのある明日を示すのは政治の役割だろう。

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吉田拓郎—「元気です」