<2023.2.18>起稿
2023年2月18日放送のニッポン放送「オールナイトニッポン55周年 松山千春のオールナイトニッポン」の中で、改めて恩師・竹田健二さんとの思い出を語っていた。その内容は2022年6月に自身のラジオで語っていた内容とほぼ同じものだったので、下に引用した。
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<2022.7.1記事>
2022年6月26日
「松山千春 ON THE RADIO」
番組50分過ぎから、自身のデビュー直前から、デビューした後、恩師・竹田健二さんが急逝されるまでを語った。おそらくNBC長崎放送でのこの番組放送を受け、長崎のみなさんに自己紹介、略歴を伝えたかったのだろう。
その話しの内容は以下のマット上に記載した。またこのことは松山千春自伝「足寄より」にも詳しく書き残されているので、その部分を抜粋した。
(50分13秒~)
みなさんはご承知かもしれませんが、私は全国フォーク音楽祭というコンテストで道東…北海道の東、十勝、釧路、根室、網走、ここの予選を通って、札幌大会の予選も通って北海道大会…それで落ちたわけだ。残念ながら俺は全国へ行けなかったんだよ。そんな時に、当時の竹田さん、(STVラジオの)ディレクターだった竹田さんが、「千春君、今度一緒にラジオをやろうよ」って声をかけられて…。まっ、落ちたからな。しかも足寄っていう遠い所から来てるからな、“ああ、慰められたなぁ”みたいなね、そういう気持ちだったんだよな。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220124/16/takamine561c/ea/9b/j/o0638032015065664169.jpg?caw=800)
(富澤一誠著「松山千春―さすらいの青春」から)
そしたら半年ぐらいしてからか(※正しくは一年後)、(竹田さんから)電話が来て、「千春君、今度昼、12時から4時まで、『サンデー・ジャンボ・スペシャル』っていう番組、その番組に『千春のひとりうた』っていうコーナーを15分設けるから、毎週2曲作って来てくれ」…だから俺は札幌で2曲披露しては夜汽車で足寄へ帰ってさぁ。1週間の間に新しい曲また2曲作って、そんなことをずうっと、半年一年近くやってたのか。
そしたら竹田さんが「レコード出そうか?」みたいなね。「えっ?レコードなんか出せるんですか?」…当然今しゃべっているこのSTVの社長や専務はみんな反対。どこの馬の骨とも分からないような、そんな男のレコードなんか、それもいちローカルのSTVラジオが…。
「竹田君、そりゃ無理だよ」って言ったら竹田さんが「退職金を前借りさせてください」「ん?!竹田、本気か?松山千春ってのはそれぐらいやれるのか?」「彼はやれる人間だと思ってます。ぜひともレコードを出してください」って言って、昭和52年1月25日、「旅立ち」でデビューして。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220123/12/takamine561c/17/b8/j/o0640064015065068955.jpg?caw=800)
8月8日、北海道厚生年金会館、今は無くなってしまったけどね、そこで初コンサートをやって、8月27日、竹田さんと別れる日が来てしまいました。あまりにも早死にでした。松山千春21歳、竹田さん36歳。今考えてみれば、何とかならなかったのか…ってつくづく思います。
上の松山千春の話しを受け、全国フォーク音楽祭全道大会落選から、その一年後「千春のひとりうた」コーナーを担当することになるまでの様子を、松山千春自伝「足寄より」から抜粋した(以下強調)。抜粋箇所は136~137㌻、142㌻。
松山千春が全国フォーク音楽祭全道大会で落選したのが昭和50年(1975年)5月。落選して会場の中島スポーツセンターを後にする時、竹田健二さんに声をかけられた。
帰るとき、竹田さんにいわれた。
「松山、ひょっとしたらラジオで使うかもしれない。そうなったら、出てこれるか」(原文ママ)
「出てきますよ」
俺は歌える場所ができるなら、いいな、と思った。しかしまるで期待してはいなかった。(…)
「落ちたよ」
と俺はおやじにいった。
「そうか、残念だったな」
「もしかしたら、STVの竹田さんがラジオで使うかもしれないって」
「そうか、使われるといいな」
おやじの反応もそれだけだった。(…)
(昭和51年)四月になったら、突然竹田さんから電話がきた。
「新しいラジオの番組やるから、おまえのコーナーもたないか」ってわけ。
これがSTVラジオの“サンデー・ジャンボ・スペシャル”。四時間のワイド番組。そのなかの十分から十五分が俺の持ち時間。“千春のひとりうた”ってコーナーで、毎週二曲ずつオリジナルを歌うってプラン。歌える場所ができるなら、こいつはいいやってわけで、俺はのった。
「千春、どんどん曲を書かなきゃだめだぞ」
と竹田さん。
いまになって思うんだけど、俺を引っ張りあげるために、竹田さんは慎重にことを運んでいたんだと思う。コンテストでラジオの話しをしてから一年後。決して忘れてはいなかったんだ。あのコーナーをもたせたのも、俺に曲のストックを作らせようってことだったんだ。
松山千春―「走れ夜汽車」(1978年)
(”ひとりうた”で足寄⇔札幌を往復する列車から見える景色がモチーフ)