今回、大阪、兵庫に行った目的のひとつ~会うべき人たちに会う以外で~は北淡震災記念公園野島断層保存館に行くことだった。

 

1995年1月17日、5時46分、明石海峡、明石海峡大橋の直下の海底14~16㌔付近を震源として発生したマグニチュード7.3、最大震度7の大地震、阪神・淡路大震災。

 

あの時私は大阪・寝屋川の大学時代の友だちのマンションにいた。寝ている体が浮き上がるほどの強烈な縦揺れ。断層が走っているエリアからずれていたことと、彼のマンションが新築だったため大きな被害はなかった。

 

テレビをつけたら神戸の街が火の海、倒れた高速道路、脱線した電車…。悪い夢を見ているかのような、この世のものとは思えない映像が飛び込んで来た。

 

彼のご両親が大阪の豊中にいた。大阪の中では特に大きな被害が出た地域で、連絡が取れないため彼の車で豊中に向かったが、通常なら片道30分ほどで着けるところ3時間かかった。途中の道々では水道管が破裂し水が噴水のように溢れ、電柱はほとんど傾いていた。途中のコンビニには食料が何ひとつなかった。

 

豊中のご両親は無事だったが、家の中はめちゃめちゃで、靴のまま入って片付けた。テレビが通常ある位置から想像もつかない遠くに転がっていた。お父さん曰く「テレビが倒れたというよりも、飛んで行った」。水道も止まっていて、市が水を配っていた。

 

その後2日間、彼のマンションから動けなかった。震度3ほどの余震がずっと続き、断層が擦れるようなこれまで聞いたことがない音が一日中出ていた。

 

通常の電話も不通。携帯電話もメールもSNSもない時代、職場では私が行方不明だと、大騒ぎだったようである。あの日以来、毎年1月17日の朝には必ず彼と夫人にお礼の電話を入れ続けている。

 

あの後、一人で2回神戸の街を訪れた。マスクをしないと歩けないほど埃にまみれた街、崩れた屋根にブルーシートを張った家々、その中で必死に復興に動かれる人々…。三ノ宮の街を歩きながら涙が溢れて仕方なかった。

 

自然の力は計り知れない、でも人間の力はもっと計り知れない。逆境になればなるほどその力を発揮する…あの激震を今でも体が覚えているが、それ以上にあの中で逞しく生きる人々の姿は記憶に刻まれている。思い出すたび、理屈抜きに生きることへの力が湧き上がって来る。

 

1998年(平成10年)、淡路島に開園した北淡震災記念公園、その中に『野島断層保存館』ができた。50㌢ほどせり上がり、1㍍ほど横にずれて出現した野島断層をおよそ140㍍ほど、屋根を被せてそのまま保存し、地震の凄まじさと脅威を、地震に備えることの大切さを伝えている。

 

また野島断層のすぐ脇にあった家をそのまま残し、家の内部もあの時の地震での被害の様子を再現している。さらに阪神・淡路大震災と同じ大きさの地震を体験できる「震災体験館」も併設している。

 

オープンの情報を知って、一日も早く行きたかったが、ここまで延びてしまった。今回訪問できてよかった。

 

改めて、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。どうか人々のかけがえのない日々が無事安穏でありますように。