ロシア・プーチン大統領のウクライナ侵攻について、日経新聞、読売新聞、朝日新聞などには毎日のように識者の寄稿や声明が掲載されている。

ひとつひとつ読んでいるが、それぞれの識者が「今の情勢を可能な限り早急に好転させる具体的な方途を示すことは難しい」という共通した見解を持っていることが分かる。もうひとつ共通しているのはそもそも「なぜプーチンは軍事侵攻という決断をくだしたのか」という問い立て。

それに対する答えは、ロシア民族や国の歴史にまで遡り論じるものや、ここ10年ほどの間に国際社会で起きた出来事にその遠因を求めるもの、第二次世界大戦やアフガニスタン問題など過去の戦争・紛争にその共通点を見出すものなど、まさに識者が10人いれば10通りの見方、捉え方がある。

読む側としては、多くの論考にあたり、共感できる部分とそうでない部分を識別し、疑問点は調べ解消しながら自分なりに思索し、自分なりの見方を養うことだろう。

その前提で、ここまで読んで来た中で、共感し賛同できない所はいくつかあるものの、共感できる点が他と比べて多かったと思った論考のひとつは以下。

 

 

(寄稿)プーチン氏に抗う力、問う時代 自由社会が独裁と似ぬよう、目的つねに自問を 遠藤乾 

2022年3月1日 朝日新聞

 

 

 2022年2月24日。プーチンの戦争が始まった。これほどの赤裸々な侵略は、ヨーロッパでは3世代前、ヒトラーがポーランドに侵攻したときにまでさかのぼらないと見いだせない。誰よりもプーチン本人に責めが帰されるべき戦争ではあるが、結果は市井の多くの人びとにとって、陰鬱(いんうつ)で、悲惨で、破滅的だ。地上戦、無辜(むこ)の民の殺戮(さつりく)、寒さや飢え、弾圧、そして難民の発生など、問題は深刻で長期にわたる。
 プーチンは、その主観に反して、ロシアの利益も害している。ウクライナを軍事的に無力化できたとして、親ロ政権はおろか中立を維持できるか不透明だ。占領や介入には膨大なコストがかかる。ウクライナはもちろん周辺諸国でも、後戻りできないほど反ロ感情が高ぶる。制裁によるロシア経済へのダメージも徐々に効いてこよう。
     *
 プーチンの念頭にあるのは、偉大なロシアの輝きや誇りを取りもどすこと。しかし、誰にもある自尊心が膨れあがり、ここまで露骨に自他を傷つけるとき浮かびあがるのは、虚偽に満ちた現状認識、怒りで歪(ゆが)んだ歴史解釈、そして力しか信じないシニシズム(冷笑主義)である。
 ウクライナが天使のようなわけではない。しかし、それがジェノサイドと大量破壊兵器の開発に手を染めるナチスのようで、人道的介入と非軍事化が必要だとするプーチンの語りは、とうてい客観的検証に堪(た)えられない。ウクライナは汚職まみれで、大統領にも問題はあれ、ロシアと比べれば自由で民主的だ。そのような国を侵略する際の名目は、イラク戦争の際にアメリカが唱えていたことと同様に見えるよう計算されているが、じっさいはウクライナを解体ないし中立化し、ロシアの勢力圏にもどしたいのだ。
 ウクライナの北大西洋条約機構(NATO)加盟阻止という「大義」も、根拠が薄弱だ。加盟国の多くはウクライナ防衛の義務を負うことに後ろ向きで、当面加盟は実現しない。存在しない見込みを理由に他国に軍隊を入れるのは、理にかなわない。そもそものNATOの東方拡大は、クリントン大統領の再選に向けてシカゴ近辺の東欧系移民の票を目当てに打ち出された面もあり、高貴なものだったわけではないが、今回のような狼藉(ろうぜき)を働く相手には正しい選択だったと多くに確信させるものとなった。
 さらにいびつなのは、プーチンのウクライナ観、全体主義的な傾きである。かの国がロシアと一体だという歴史認識は、巷(ちまた)の素人談義ならまだしも、権力者が振りかざすと有害極まりない。ウクライナにある言語や歴史、独自の国民性を無視し、ロシアの一部としてしか生きられない混成物だという身勝手な見解を銃剣で押しつけるとき、それは他者の存在を丸ごと否定する全体主義に近づく。
     *
 残念ながら、ロシアで政変や革命が起きない限り、この独裁者を抑えるには力が必要だ。その点に目を背け、皆で声を上げつづけるというだけでは不十分である。
 まず対立は構造的で長期化する。それを新冷戦と呼ぶかどうか、ここでは問わない。しかし、東西の勢力争いは沸点に達したうえ、イデオロギー的な乖離(かいり)は明らかだ。プーチンは、自由や民主、法や規範を侮蔑する。その点、ウクライナ侵攻が、国連常任理事国ロシアの主宰する安全保障理事会の最中に始まったのは、象徴的だ。そこでは国連憲章も国際法も力不足で、国際的な公助のシステムは作動しない。その理事会で棄権した中国は、ロシアの行為を侵略と呼ばず、同国産小麦の買いつけに走った。現状変更への力と意志をもつ権威主義国同士の接近は、米ソ冷戦の比喩ではすまされないほど、今後の国際環境が厳しいことを示唆する。核抑止のハードルが下がり、戦争の領域がサイバー、技術、金融などへ深化・拡大するにつれ、対立が熱戦に転化し、社会領域におよぶリスクは高まっている。
 そうした相手に自助や共助で臨むと、いきおい軍備や同盟の強化に行きつく。これは当面不可避と思料する。国際的な場における原則も約束も尊重せず、理不尽な暴力を行使することが今回明らかになったからだ。ただし、制裁であれ軍拡であれ、力に力で対抗する際、それでは相手と同じではないか、という疑念がわくこととなろう。
 2大戦の間に青年期を生きたリベラリストの仏思想家レイモン・アロンは、興隆するナチス・ドイツへの対抗の必要を留学先のドイツで感じとり、平和主義から脱皮するが、その際、力の行使が不可避であるならば、何のために行使するのか目的を問うことを重視した。力へのシニカルな信奉がはびこるナチスと異なり、多様な解釈や生き方を許す自由な社会においては、それを守るために力が行使されるという目的限定性が大切なのである。
 自由や民主は、人びとが時に間違えるという可謬(かびゅう)性を前提にしている。だから、多様な意見が尊重され、政権が交代できるようにするのだ。独裁は、間違いをみずから是正しえない。自由・民主を重んずる体制は、独裁のそれと近似してはならない。
 われわれは何のために力を養い、行使するのか。対抗する過程で相手に似てこないか。向こう10年は、不可避な力の行使をしながら、その目的合理性が常に問われる、厳しい時代となろう。
     ◇
 えんどう・けん 北海道大学教授(政治学) 1966年生まれ。専門はEU、安全保障、国際政治。著書に『欧州複合危機』『統合の終焉(しゅうえん)』など。