<2022.1.23再掲>

<2022.1.22記事>

 

 

2020年の1月19日放送の「松山千春 ON THE RADIO」では、冒頭から、デビュー前後からファーストコンサート、そして函館コンサート当日の竹田健二さん急逝(昭和52年・1977年8月27日)までを語り、自身の「旅立ち」をかけた。

 

デビュー記念日(1977年1月25日)の前の放送ではここしかない。

 

去年の番組もデビュー記念日前の1月24日放送だったが、デビュー記念日については番組の冒頭に一言触れただけだった。去年はその1週間前、1月16日にお母様が逝去しているので、そのことをほぼ1時間使って語った。

 

今年の同番組もデビュー記念日の2日前、1月23日に放送される。ぜひともデビュー当時や竹田健二さんのことについて語って欲しい。

 

ご存知のとおり、デビュー前、松山千春は竹田健二さんの計らいで、STVラジオ「サンデー・ジャンボ・スペシャル」の中で”千春のひとりうた”というコーナーを持つことができた。これは昭和51年(1976年)4月から始まり、翌昭和52年(1977年)1月にデビューした後、その年の9月まで1年半続いた。

 

その”千春のひとりうた”について松山千春自伝「足寄より」から抜粋した(以下)。

 

札幌のSTVに通う、と言っても実際には竹田さんの元に通ったデビュー前の松山千春の様子を想像する。竹田さんと一緒に、この上なく幸せな宝のような日々だったと思うし、この約1年半こそが、デビューして45年経っても竹田さんの恩を忘れず、フォークシンガーとして第一線で歌い続けられている強固な土台を作ったのだと思う。

 

 

(昭和51年・1976年4月)

 

 四月になったら、突然竹田さんから電話がきた。

 

「新しいラジオの番組やるから、お前のコーナーもたないか」ってわけ。

 

 これがSTVラジオの”サンデー・ジャンボ・スペシャル”。四時間のワイド番組。そのなかの十分から十五分が俺の持ち時間。”千春のひとりうた”ってコーナーで、毎週二曲ずつオリジナルを歌うってプラン。歌える場ができるなら、こいつはいいやってわけで、俺はのった。

 

「千春、どんどん曲を書かなきゃだめだぞ」と竹田さん。

 

 いまになって思うんだけど、俺を引っ張り上げるために、竹田さんは慎重にことを運んでいたんだと思う。コンテストでラジオの話しをしてから一年後。決して忘れてはいなかったんだ。あのコーナーをもたせたのも、俺に曲のストックを作らせようってことだったんだ。

(中略)

 (”サンジャン”が終わった夜)札幌十時二十分発の”からまつ”に乗るわけ。これだと足寄に着くのが、朝の八時半ぐらい。(足寄の手前、明け方になると朝日がさしてくる)このときの気持ちを歌にしたのが『走れ夜汽車』なんだけどね。こういう生活パターンができたわけ。 (同書142~144㌻)

 

 

”千春のひとりうた”については、富澤一誠著「松山千春―さすらいの青春」の中にも松山千春の述懐として掲載されている。

 

 昭和五十一年の三月、竹田ディレクターからの電話で、千春は札幌にSTVを訪ね、竹田ディレクターに会う。

 「竹田さんはそのとき、オレにラジオに出てやってみないかと言った。正直言って、オレはびっくりした。(…)オレにできるかなと思った。ところが竹田さんは、『千春のひとりうた』というコーナーを設けて、毎週二曲歌を作ってきてうたえという。オレもフォークが好きだったから、やりたいと思ったが、オヤジの仕事の手伝いもしなければいけないし、それで困ってしまった。だが、結果的にやろうと思ったのは、竹田さんの熱意を感じたからだな。竹田さんは赤の他人のオレのことを親のように思ってくれた。そんな竹田さんの気持ちを察すると、この人だったら賭けてもいいと思えるようになって来た」(同書114㌻)

 

 「正直言って、二曲作るっていうのはきつかったな。それも毎週だぜ。作って作って作らなければならなかった。そのため、オレは、オヤジの手伝いがある日は夜に、STVの仕事があるときは、夜行列車の中でよく作ったもんだ」(同書123㌻)