今日、12月16日、松山千春が66歳の誕生日を迎えた。

 

現状のWHOの定義で言う「高齢者」は65歳以上。松山千春は既に去年から高齢者の仲間入り。

 

おめでとうございます、と言っていいのか分からない年齢になって来た感じもするけど、ともあれ誕生日、おめでとうございます。

 

今年の誕生日はコンサート・ツアー、今日の名古屋公演(2日目)で迎える。13日のラジオで言っていた。

 

俺自体もこの後、名古屋での2日間コンサートなんですけどねぇ、その2日目が、まぁ、誕生日。66歳になると言うわけでありますけどねぇ。

 

去年12月13日放送の「松山千春のON THE RADIO」で、自身の小さい頃の誕生日について語っていた。当時、出稼ぎに出ていたお母様も戻られ、年1回出て来るケーキを囲んで、唯一の家族団らんの場だったと。以下その箇所を抜粋。

 

花札ツアーに出かけている母さんでさえ、クリスマスイブには帰ってきて、ケーキ、一年に1回。(俺の)誕生日は12月16日なんだけど「お前、それクリスマスと一緒にしなさい。ややこしいから」(と母さんが言う)。ややこしいことはないと思うんだけどなぁ(笑)、俺とクリスマスは。

どだいうちは浄土真宗だろう。なぁ、まぁ一緒にするというのもなんだと思うんだけどなぁ、と思いながらね、そんな母さんでも、家族5人でね、ぼろい家の中でケーキを囲んでな、「母さんどうだ?花札、うまく勝ってるか?」とかね。「千春、母さん今度の旅で勝ったら、新しいジャージ買ってやるからね」とかな。家族団らん、唯一5人の家族だったんだからなぁ。

 

松山千春は、今年1月16日にお母様を、そして9月19日には弟の明人さんを亡くしている。お父様、お姉様は先に他界されている。お父様、松山明さんとお母様、ミヨさんのご一家としての松山家は、松山千春一人になってしまった。今回のツアーではその悲しさと寂しさを涙ながらに吐露しながらも、これからも生きて生きて生き抜いていく決意を語っている。

 

幸せな日  笑いあふれて  

哀しくつらい 涙 重ねて
私の瞳に  映るものみな  

私の人生を  優しく歌う

(松山千春「流浪」/1988年)

 

コンサートを通しての面識しかないが、縁あって出会い、応援し続けて40数年。

僭越ながら、とにかく健康であって欲しいと願い、これからもずっと私たちに歌を届け続けて欲しい。

 

松山千春コンサート・ツアー2021春

6/29(火)・30(水)カナモトホール(札幌市民ホール)

「流 浪」

 

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以下は昨年の松山千春の誕生日にも載せた記事(初掲載は2020年4月20日)。

松山千春の誕生日を思うと、必ずこの横浜アリーナでの松山千春の魂込めたトークを思い出す。2月20日、亡きお姉様の誕生日のこと、闘病のことを語っていた。合掌するような気持で、今年も再掲した。

 

 

 

1998年12月18日、19日両日のコンサートの模様を収録した映像作品「松山千春1998横浜アリーナ」。私もその場にいて、その時聞いたトークも収められている。

 

亡きお姉様のことを歌った「この世で君が一番好き」を歌い終わった後、「愛しているから」に入る前のトークで、お姉様の闘病の様子や誕生日のことを語っていた。


「1998年4月28日、48歳でしたが、がんで逝った姉貴、松山絵里子、死んでいく姉貴のために弟として何かしてやりたいと思って、「この世で君が一番好き」という曲を作りました。思い出に残る一曲になった。8月、姉貴の骨を足寄のお墓に収めました。親父の隣に姉貴の骨も収めて。


その時に姉貴の旦那さん、俺の義兄、たけちゃんが言った。

「千春、絵里子な、入院してからずっと手帳つけてたんだ。ちょっと見てやってくれるか」

姉貴は札幌の病院に入院していた。
(その手帳には)今日はこんな検査をした。何の病気だろうとか、いろんなことが書いてあって。今年になってからは「苦しい」とか「痛い」とか。「今日は痛みが激しい」とか。「本当に治るんだろうか」 

2月の20日が姉貴の誕生日。

「姉貴、おめでとう。48歳だな。ベッドの上だけど、おめでとう」

「千春、いつになったら帰れる?」

「あと一回手術したら治るらしいよ。そしたら足寄に帰れるぞ。だから頑張れ」

…ひょっとしたら姉貴は俺の嘘を見抜いていたかもしれない。がんだったからがりがりに痩せてて。

手帳の最後に、姉貴も最後の力をふり絞って書いたんだろう。

「千春、ありがとう。明人、ありがとう」。友達の名前がいっぱい書いてあった。

「たけちゃん、ありがとう」

「父さん、母さん、生んでくれてありがとう」

姉貴には一人息子の光里がいる。その手帳の一番最後には、

「光里、生まれてきてくれてありがとう」

「光里、生まれてきてくれてありがとう」…これが姉貴の最後の言葉だった。

自分は死んでいくけど、自分の血がつながった子どもに対して、”お前がいるからこそ、お前が生まれてきてくれたからこそ、母さんはこんなに頑張れたんだよ。母さんが死んでも、お前は楽しく自分の人生を歩いていくんだよ”―そういう思いがこもっていたと思う。

みんなにもお父さん、お母さんがいると思うけど、”生まれて来てくれてありがとう”―そう思っていると思う」
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松山千春自身、いくつもの大病を抱えながら、これまでと同じことが出来る体調と年齢ではなくなっているだろうし、一般的に考えてもさらに年々厳しくなるだろう。

 

あの日、横浜アリーナでお姉様の話しの最後に語っていた。

 

「死ぬまでに一曲でも多くの愛の歌を書きたい。親子の愛だったり、きょうだいの愛だったり、家族の愛だったり、友情でもいい。海や山、風、自然に対して愛情を感じることがあるかもしれない。何でもいい。この世に生まれてきて感じた愛情、一曲でも多く書きたい」

 

僭越ながら、どうか健康にはくれぐれも留意され、これからも一曲でも多く深みのある人間愛が伝わる歌を残して欲しいし、歌い続けて欲しい。

 

私自身も気づけば53歳(2021年12月16日現在)、もうすぐ54歳になるが、松山千春が歌い続ける限り、応援し続けたい。