松山千春は自伝「足寄より」で小椋佳に言及している。

 


松山千春が高校を卒業し、北見でバーテンなど様々なアルバイトをしていた時代(昭和49年から約1年間)に小椋佳をよく聴いたというくだり(以下)。

 「最初の三万円の給料は、おやじに一万円、おっかあに一万円やった。どっちにしろ、三万円だから、小遣いだけで消えちゃう。
 買ったのはレコード。井上陽水に小椋佳。(中略)
 小椋佳はショックだった。俺はどっちかっていうと、静かに歌いだして、途中から気分が高まっていくみたいな感性がある。小椋佳はそうじゃないんだよね。歌い方にもメリハリがないみたいで、一本調子。それでトータルとしてはキチッとメリハリがついているし、グーンと盛り上がってくる。すごいなあと思った。北見では小椋佳ばかり聴いてた」

(「足寄より」126㌻)

 

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特集ワイド:デビュー50年、芸能界引退へ 

歌手・小椋佳さん 喜寿の「鬼」、世のウソ探す人生

2021年7月6日 毎日新聞東京夕刊


 デビュー50年を迎えた歌手の小椋佳さん(77)が、秋のツアーを最後に芸能界を引退する。シンガー・ソングライターの先駆けである小椋さんは東京大法学部を卒業後、銀行員としても成功しながら、大学に戻って哲学を修めた偉才。ラストアルバムの曲の一節にはこうあった。♪鬼のままのわが生涯 流石(さすが)に喜寿 疲れました。老境の鬼が探し続け、見つけたものとは。
 「僕も老いぼれました。もういいでしょ」。シュポッと音を立てて100円ライターでセブンスターに火を付けると、小椋さんは目尻を下げた。20代からたばこは1日2箱。コーラ(1・5リットル)は10日で半ダース。57歳でがんになり、胃の5分の4を摘出。68歳で劇症肝炎になり、もうすぐ足の静脈瘤(りゅう)の手術をする。「たばこもコーラも生活必需品。体にいいことは、一つもやっていない」。何だか不良仙人のようである。
 これまで作った歌は2000曲近く。「シクラメンのかほり」「さらば青春」「愛燦燦(さんさん)」など多くの名曲を世に送り出した。目を閉じれば、誰しもが<優しく睫毛(まつげ)に憩う>思い出の曲が浮かぶのではないか。近年も映画「北の桜守」の主題歌で日本アカデミー賞の優秀音楽賞を受賞し、業界の第一線で活躍している。
 「若い頃は、こんなに続くはずないと思ってましたよ。歌い手なんて、ちょっと世に出て、すぐいなくなる」と小椋さん。デビューは、不遇時代を共に過ごした盟友の井上陽水さんと重なる。「ようやく売れてレコード会社に表彰された時、陽水が言いましたよ。『賞金はいいから年金をくれ。老後が心配だ』って。みんな先が見えなかったんだなあ」
 デビューのきっかけは、寺山修司だった。大学4年の時、劇場で見た寺山のミュージカルに興奮し、その足で電話ボックスに。電話帳に載る寺山の番号にかけて、会いたいと迫った。「無謀ですよね。若気の至りだったんだなあ」。その時は体よく断られたが、小椋さんは諦めず、その後、自宅に出入りするようになった。寺山作詞、イラストレーターの和田誠作曲の歌をLP版で3曲歌った。
 曲を聴いてプロデビューを打診したのが、音楽プロデューサーの多賀英典さんだった。だが、既に小椋さんは旧第一勧業銀行のエリート行員。結婚して妻の佳穂里さんとの間に乳飲み子もいた。才能にほれた多賀さんと練った奇策が、本名の神田紘爾ではなく「小椋佳」としての覆面デビューだった。
 その後の躍進ぶりは、誰もが知るところである。3枚目のアルバム「彷徨(さまよい)」は100万枚を超える大ヒットになり、「シクラメンのかほり」は日本レコード大賞を受賞した。とはいえ、行内の風当たりは強かった。「俺はいいと思うけど、他の人が許さないよ、なんてイヤらしい言い方で銀行を辞めさせようとする人がいました」
 小椋さんは超然として意に介さなかった。「歌づくりと銀行員の労働時間を比べると、圧倒的に銀行員が長かった。歌づくりは1曲3時間。年間50曲つくっても1年間で150時間。銀行なんて夜の酒の付き合いや土日のゴルフも含めると、年間2400時間もありましたから」
 銀行員としてもトップランナーだった。行内の懸賞論文で入賞し、26歳で米国留学、31歳で米メリルリンチ証券のニューヨーク支店に出向した。金融知識を生かして行内で先駆けとなって「円建て外債」の発行に携わり、国際財務サービス室の初代室長として、日本では黎明(れいめい)期にあった金融派生商品(デリバティブ)の開発にも取り組んだ。
 「先物、証券、スワップの知識を組み込むんですよ。仕組みが複雑だから行内の上から下まで誰もわからない。面白かったなあ」。納得しなければ衝突も辞さない。「総合金融化」を訴えて「お前は2・26事件を知っているか。腹切りの覚悟はあるか」と幹部にすごまれたこともあった。「何だ、この恐喝はと思いましたね」。金融ビッグバンのだいぶ前のことである。
 驚くべきは、小椋さんは行内で突出した才能を発揮したこの頃と同時期に、堀内孝雄、美空ひばりといった世に名だたる歌手に後の代表曲となる歌を提供していたことだ。歌づくりでも余人をもって代えがたい才能となっていたのだ。
 ◇歌づくりは真剣な遊び
 末は頭取か、などとうわさが立った小椋さんが突然に退職し、東大に学士入学したのは50歳の時だ。「若い頃にできなかった『どう生きるべきか』の答えを探したかったんです」。50歳からの6年間を哲学を徹底的に学ぶことに費やした。絶対的な正義や悪、そして真理の探究が目的だった。でもね、と小椋さん。「そんなものなかった。最終的な理屈なんて何もない。人生に生きる意味なんてない。むなしいけれど、それが真実」
 芸術の領域でもビジネス業界でも異彩を放った傑物がたどり着いた意外な境地。しばらく黙してから、小椋さんはたばこの煙を吐いた。「でも、むなしくても楽しいことに人は喜べるんですよ。歌づくりは、僕にとって真剣な遊びだった」
 退職後も小椋さんは歌づくりを続け、全国でコンサートを開いた。組織を離れて小椋佳として表舞台に立ち、個の活動に力を注いだのだ。「やっぱり日本人は個を喪失してます。社会が極端に組織化されて、個を囲い込んじゃった。銀行でいえば預金が増えたから万歳、業績が伸びた、なんてね。その方が個人も楽だから、個を見つめることを忘れて、組織の価値構造に自ら組み込まれて生きてる。頭の中まで組織の論理に洗脳されちゃっている。理屈に合わなくても納得しちゃう傾向が、社会にまん延してますよね」
 歌づくりに突き動かされてきたのは、なぜなのだろう。「結局、組織化される社会への個としての抵抗なんです。会社のやる仕事なんて、せいぜい三つか四つの選択肢から選べばいい話。でも、歌づくりはゼロから考える。個として生きるってのは、有限じゃなくて無限からの選択をしていくことですから」
 今秋からの引退ツアーで音楽活動を終わりにする。ステージで歌う「もういいかい」の一節、♪鬼のままのわが生涯。そこに込めた思いを種明かししてくれた。「僕の中で真実探しは終わってしまった。振り返ってみると、僕の人生はかくれんぼの鬼、隠れている世の中のウソを探す鬼の役回りをしていた。僕ももう77歳。それにくたびれたってことです」
 世を見通せる千里眼を持てば、他人よりも抜きんでる。だが、モノがよく見えてしまう聡明(そうめい)な人は、ウソや矛盾に気づかぬフリをするのが難しい。小椋さんは組織に組み込まれず、歌づくりで独創的な世界を築いた。ただ、徒党を組まず迎合しない人生には、孤独が付き物だ。自らを鬼になぞらえた小椋さんは、引退を機に、そうした人生に区切りをつけたいということなのかもしれない。
 もう疲れたよ、と小椋さんはまた目尻を下げた。【川名壮志】
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 ■人物略歴
 ◇小椋佳(おぐら・けい)さん
 1944年、東京生まれ。本名・神田紘爾。71年、アルバム「青春-砂漠の少年」で音楽活動を開始。中村雅俊、布施明、美空ひばりらに楽曲を提供。ミュージカルの創作も手がけた。今秋からのツアー「余生、もういいかい」で歌手活動に終止符を打つ。

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小椋 佳「時」