読売新聞連載[時代の証言者]現代の吟遊詩人 さだまさし
12月3日は第23回「曲の提供 生きがい」
毎回の連載にさだまさしの思いが散りばめられているが、今回はとくにそれが強いように思える。ソングライターさだまさしの矜持と言っていいのかもしれないし、それらの言葉からさだまさしの人柄が伝わってくる。
「自分の敬愛する歌手に曲を提供するのは、まさに生きがいです」
(雪村いづみさんに曲を提供した際)「自分が弾き語りしたデモ音源を渡したのですが、その後、雪村さんが歌った完成音源を聴いた時、体が震えるほど感動しました。歌い手によって曲はこれほどまでに光り輝くものなのかと」
「全曲満足できる曲で固めたアルバムはまだ作ることができません。そんなアルバムを出すまでは、この仕事をやめられない」
僕はシンガー・ソングライターですが、歌うことより歌作りの方が自分の本質だと思っています。
《曲を自作し自ら歌うシンガー・ソングライターが日本で注目されるようになったのは、1960年代後半のフォークブームから。70年代以降は自作自演が主流となり、シンガー・ソングライターが他の歌手に曲を提供するケースも珍しくなくなった》
身も蓋もない言い方になってしまいますが、僕は自分の声が嫌いだし、歌も基礎がなっていないへたくそだと思っています。中学生の時にギターを覚え、曲を作り始めましたが、歌はその曲を友人たちに聴いてもらう手段にすぎませんでした。高校時代にバンドを組むようになってからも、リードボーカルは僕以外が務めていました。
初めて聴衆の前で歌ったのは、アマチュア時代のグレープのコンサート。それも直前にお互い歌いたくなかった相棒の吉田政美とのじゃんけんに負けて、お鉢が回ってきたからです。
デビュー直後、NHKのオーディションを受けました。これに受からないとNHKの番組に出演できないというものです。試験は2次にわたり、1次はよっぽど下手でなければ通り、2次はデビューが決まっていればまず受かると聞いていました。ところが1次で落ちてしまったのです。この時の心の傷はいまだに引きずっています。今も音楽番組などで自分の出演場面を見返すことはしません。
一方、曲作りは好きです。曲やサウンドの細部を詰めて完成させていくアルバム制作の作業は本当に楽しいなと思います。でも出した後に粗に気づき、「こうしておけば良かった」と悔やみます。それが最高潮に達した発売1か月後あたりに、そのアルバムが大嫌いになり、その後次第にあきらめの境地に達し、数年後に「まあそこそこ頑張っているな」といった再評価に落ち着くのです。
だから、自分の敬愛する歌手に曲を提供するのは、まさに生きがいです。「この人ならばこんな旋律でも歌える」と思うと、曲作りの自由度が広がるからです。換言すると、自分が歌う場合は、「さだまさしが歌うから、この程度の曲しか作れないんだ」というもどかしさがあります。
90年代前半、雪村いづみさんのデビュー40周年にちなみ、「虹」という曲を提供した時のことです。自分が弾き語りしたデモ音源を渡したのですが、その後、雪村さんが歌った完成音源を聴いた時、体が震えるほど感動しました。歌い手によって曲はこれほどまでに光り輝くものなのかと。
歌に納得したことはないが、「いい曲書けたな」ということはあります。それでも全曲満足できる曲で固めたアルバムはまだ作ることができません。そんなアルバムを出すまでは、この仕事をやめられないと思っています。(シンガー・ソングライター)