昨夜(10月18日)の松山千春「ON THE RADIO」

10月7日に亡くなられ、10月12日にそれが伝えられた作曲家の筒美京平さんに言及していた。
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さて、先週作曲家の筒美京平さんが亡くなって。80歳。人生100年時代を考えれば、若かったな。そうやって考えたら、俺たちの周り変わったよな。俺がガキの時には、還暦を迎えたと言ったらもう爺さんだもんなぁ。還暦を迎えればその先は長くないだろう(という認識が一般的だった)みたいなな。ところが今は80で亡くなっても、まだいやぁ~まだ惜しい、残念だ、だからなぁ。


筒美さんの場合はね、幅広いジャンルの曲を手掛けた方ですからね。俺、分かんないんだよな。俺は自分で作詞作曲するわけだろ。筒美さんは作曲だから、どっちが早いんだろう?詞をもらってメロディを考えたんだろうか。それともある(出来上がった)メロディに詞を付けてくれないか…いろんなパターンがあったと思うぞ。もちろん、自分よりも先輩みたいなな作詞家の先生がさ、「筒美君、これに曲を付けてくれないか?」って言われたらね…。ところが筒美さんも先生だからさ、このメロディに合うような詞を誰か書いてくれないか?というようなことをやっていたのかも知れないな。

 

そうやって考えたら、シンガーソングライターの私としてはね、作曲家として本当に才能にあふれて、いろんな曲をお作りになった、またこの世に残した…音楽家としてほんとに貢献の大きな方だったなと思って、手を合わせさせていただきます。

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この話しの後、筒美京平さんが作曲された大橋純子さんの「たそがれマイ・ラブ」(1978年)と桑名正博さんの「セクシャルバイオレットNo.1」(1979年)をかけた。

 

松山千春がかけた上の2曲に限らず、「また逢う日まで」「さらば恋人」「木綿のハンカチーフ」「魅せられて」、アニメ主題歌「サザエさん」など、1960年代から現代まで、80年の生涯で実に3000曲弱を作曲され、数々のヒット曲を世に送り出してこられた。

 

私が知る限りで、筒美京平さんが作曲した歌で一番思い出深いのは、近藤真彦の「スニーカーぶる~す」。近藤真彦のデビューシングルとして1980年12月に発売され、ミリオンセラーとなった近藤真彦最大のヒット曲。

 

1980年は私が中学1年の時で、田原俊彦とともに、クラス、学校中の女子が近藤真彦のファンだったと言っていいほどみな熱狂していた。いやでも耳に入ってきた。

 

以下、スポーツ報知に掲載されていた評伝。当然、お会いしたことはないが、短文ながらこの評伝から筒美京平さんのお人柄と生き方が伝わってくる。

 

ご冥福をお祈りします。

 

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「ブルー・ライト・ヨコハマ」「木綿のハンカチーフ」一晩で名曲書いてしまう天才…筒美京平さん評伝 10/13スポーツ報知

 昭和の歌謡曲黄金期を支えた作曲家の筒美京平(つつみ・きょうへい、本名・渡辺栄吉=わたなべ・えいきち)さんが7日午後3時頃、誤嚥(ごえん)性肺炎のため都内の自宅で死去したことが12日、分かった。80歳だった。グループサウンズやアイドルなどに提供した作品は3000曲とも言われる。近年はパーキンソン病を患い、自宅療養を続けていた。葬儀は近親者のみ(喪主=妻・善子さん)で執り行い、お別れの会の予定は、現時点でない。(売上枚数はオリコン調べ)
 一晩あれば、何十年も歌い継がれる曲を書いてしまう天才だった。


  1968年のある日、青学大時代からの盟友だった作詞家・橋本淳さんから電話があった。「今、横浜にいる。いしだあゆみの新曲の詞ができたんだけど、曲を書いてくれないか」。了解。ちなみに期日は? 「明日がレコーディングなんだ…。今、詞を言うよ。『街の灯りがとてもきれいねヨコハマ…』」。翌日に「出来たよ」と持ってきた曲は、昭和歌謡を代表するミリオンセラーになった。
 75年、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」の詞を松本隆さんから託された。またしても締め切りは翌日。メロディーを重ねるのが難しい詞だったが、一夜明けると、完成した楽譜を笑顔で手渡した。
 音楽的素養は米国大使館の近くで生まれ育った少年期から培われた。4歳からピアノに没頭し、バート・バカラックらのアメリカンポップスを聴き込んだ。大学時代はジャズに傾倒し、あらゆる音感とコード進行が体内に育まれた。「ブルー・ライト・ヨコハマ」に代表されるように、歌謡曲の王道をゆくメロディーに洋楽的サウンドを融合させるスタイルが真骨頂だった。
 技術だけでなく、存在としても職人として生き続けた。「『売れないけど心にしみる歌』はいらない。僕はヒットメーカーという呼び名にこだわりたい」。プロとして結果のみを追求した。
 人前に出ることを嫌い、若い頃は取材も受けなかった。「筒美京平」は存在せず、合作のカムフラージュとうわさされた時期もある。ある年、サプライズでレコード大賞授賞式のステージに立たされると、終了後に舞台裏で激怒した。主役は歌手であり、歌。終生貫いた信念だった。
 もともと考えていたペンネームは「鼓響平」。力強さと気品が重なる鼓の音を理想とした作曲家は戦後日本人の胸に鼓動を響かせ続け、生涯を閉じた。