「待つ力」
精神科医 春日武彦
扶桑社新書/2012年12月
精神科医であり、多数の著書を持つ著名な春日武彦氏による「待つ」という営みについて考える本である。
『待つということに付随するさまざまなイメージや精神現象を眺めつつ、「待つ」という心構えを見つめ直し我がものする――たった「それだけ」の本です。でも、それができずに空回りしている人がいかに多いことか。何らかのヒントになれば、この本を読んでいただいた甲斐があるというものです』(「はじめに」)
本書は「究極の苦しさ」「待つことに翻弄される人たち」「時間のない世界」「待つ技術」「空白と不条理」「正気を保つということ」の全6章で構成され、「待つ」という行為を、具体的なエピソードを幾つも交えつつ、様々なアプローチで捉え、解きほぐしている。つまり「待つ、とはどのようなことか」を著者なりの視点で伝えている。
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未来に対してある程度の予測――そこには期待は不安や恐れといった感情が伴いがちでしょう――を抱きつつ自分の立場を時間に委ねる。これが「待つ」という振る舞いでしょう。この場合、「時間」を運命とか成り行きと言い換えても良いのかもしれません。(中略)
待つという行為は、それが切実なほど、待ち時間が長いほど、こちらの心が弱っているときほど、妄想的な色彩を帯びがちとなります。考えが現実離れしていったり、被害妄想的になっていきかねない。(17~19㌻)
努力や頑張りでどうにかしようとしても、なお結果を待たねばならない。宙ぶらりんの居心地の悪さに耐え、取り越し苦労や不安や疑心暗鬼を必死に追い払い、無力感と孤独感を噛みしめざるを得ない。
まさに、精神的に裸となった自分と対峙しなければならないのが「待つ」という営みなのではないでしょうか。(36㌻)
我々は、誰もが一人残らず「待つことに翻弄される人たち」なのです。そんなことは御免だと思っても、待つことから決して逃れられない。そこに苦しみや苛立ちと、たまに喜びが含まれる(61㌻)
(自身が抱える問題などを)保留(ペンディング)できる能力は、もっと別な言い方をするなら「中腰の状態で事態の展開や解決を時間に託す」ということです。(そう言うと)確かに、放置とか無責任とかそういったネガティブなイメージを持たれかねない。消極的、受動的なものと思われかねない。でもここで申している「保留」はもっと積極的な意味を帯びています。差し当たって行えること、詰めるべきことは済ませた上で、「人事を尽くして天命を待つ」と自覚しつつ時間に託す。それは偶然性や関係性にアクセスするための積極的な方法論ではないでしょうか。予想外の物語を立ち上げるための手続きと言い直してもよいのかもしれません。
(163~164㌻)
おそらく、待つという行為には正気を失わせる要素があります。何もできずに手を拱き、時間い運命を託すしかない。不安や怒りや妄想が醸成されかねない。積極的な生き方の前に立ちはだかるのが「待つしかない」という状態です。遮断機の降りた踏切のように、待つことはいまいましい。(中略)(しかし、「人事を尽くして天命を待つ」ということは一方で)何よりも自分の予想や想像を超えた物語を見せてくれることが少なくないという点で「楽しく面白い」のです。想定内の未来ばかりを相手に生きていては、人生は退屈どころか卑小なものになってしまう。
どうにもならなかった懸案事項に自ら決着点を見つけ出す可能性が、そして嬉しい驚きをもたらしてくれる可能性が、「待つ」ことには宿っている。その事実を実感しているか否かで、我々の世界観は大きく違ってくることでしょう。(170~171㌻)
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哲学者や思想家、世のリーダーたちが残したいくつもの「逆境を乗り越えるための言葉」は、一面ではこの「待つ」ことに耐え、「待つ」ことを意味づけるための言葉であるのかも知れない。
本書にあるように「待つ」ことが自分自身に与える二面性をよく理解できる。苦しくて、投げ出したり諦めたくなる時がある一方で、「待つ」ことに自分なりの意味を見出し、訪れる未来を見据えて、必死に今を生きる自分もいる。その両面の自分がいつも自分の中で葛藤している。
往々にして、苦労もせず、思い通りいけばよいように思えるかもしれないが、結局は傲慢で小さな人間になってしまうものである。努力しても努力してもうまく事態が展開していかない時、つまり待つという時間に入った時、それを「自分の力を蓄える時であり、さらに自分自身を深く大きくするため。もう一歩深く自分を見つめ直し、自分の人格を磨くため」と捉えた瞬間から、水面下では事態が動き始めるのだろう。
本書の画竜点睛は『精神的に裸となった自分と対峙しなければならないのが「待つ」という営み』(36㌻)にある。