(松山千春LP「あなたが僕を捜す時」ジャケット)
私たちは言葉とともに生きています。言葉の中で生きています。
年齢を重ねるたびに、言葉の使い方の大切さを実感します。自身が発する言葉にも、文章を書く時の言葉にも、一層注意を払うようになってきましたし、これからもさらに磨きをかけていきたいといつも思っています。
松山千春が1986年にリリースした「あなたが僕を捜す時」(同タイトルアルバムも)という歌は、痴呆症になった松山千春のお父様がテーマで、あなた(父)が僕(松山千春)を分からなくなって、それでも僕を捜す時、いつでもそばにいると歌います。
この場合の「さがす」は「捜す」。「探す」は使いません。歌詞全体の意味からしても「捜す」です。
NHK放送文化研究所による、「捜す」と「探す」の違いは―。
一般に「無くしたもの」「見えなくなったもの」や「居なくなった人」などを「さがす」場合には、「捜す」です。
「紛失物を~」「行方不明者を~」 また、「欲しいもの」や「見つけたいもの」を「さがす」場合には、「探す」を用います。「職を~」「他人のあらを~」
さて、最近よく目にする「終息」と「収束」
コロナ禍、先日、職場の文書で「収束」を目にしました。新聞紙上では「終息」も目にします。どちらが正しいのでしょうか?
再びNHK放送文化研究所の定義から―
まず「終息」についてお話しします。「終」は文字どおり「終わる」という意味ですが、「息」という漢字にも「止<や>む」という意味があります。つまり「終息」は、似た意味の漢字を2つ重ね合わせて「完全に終わる」という意味になっていると考えることができます。
次に「収束」について説明します。これは「収まる」「束ねる」ということから、「(状況・事態などが)ある一定の状態に落ち着く」という意味になっています。ふつう、「(例えば新型肺炎の)問題・感染状況」などについて使うことが多く、「新型肺炎」といった病気自体が「収束する」という言い方(書き方)は、あまりしません。(中略)
「終息」は「完全制圧」であるのに対して、「収束」の場合には、ほぼ事態が収まっていることを意味します。
言葉(漢字)が持つ意味によって、明確な使い分けがあります。
意味を知ったうえで、そこに書き手の思いを乗せる場合だってあります。
私はこのコロナ禍のくだりでは基本的には「終息」を使ってきましたが、アフター・コロナ、ウィズ・コロナが見えて来てからは、つまり長期戦を認識してからは、ある一定のタームごとに一旦は収まるという意味と、しかし本当の意味で一日も早くこの禍から人々が開放されて(終わって)欲しいとの願いを込め、最近では「終息(収束)」と書くようにしています。あくまで私流の表記ですが。
収束と終息が同居しているような状況下、一面では厄介なこの立て分けは、新型コロナウィルス感染症が完全に終息した時にはじめて収束するのかも知れません。
(本文と写真は関係ありません)