2015年4月に逝去されたギタリストの矢島賢さん。

 

CHAGE and ASKAのファーストアルバム『風舞』や松山千春アルバム『愛を贈る』など多くのレコーディングに参加しているが、一番記憶に残っているのはやっぱり長渕剛のツアーサポート。

 

1980年代終わり頃から1990年代中盤頃までツアーに帯同していた。あの頃の長渕剛のサポートメンバーはギターに矢島賢、ドラムスは島村英二、アコースティックギターに笛吹利明などそうそうたるメンバーばかりだった。

 

以下、ichiro_ishikawaさんのブログ長渕剛と矢島賢から抜粋。

 

1986~92年ごろの長渕は本当に途轍もなかつた。
30~36歳。『STAY DREAM』から『JAPAN』と言つてもいい。音楽的にも、そして人気的にも、最高潮で、他を寄せ付けない、圧倒的な凄みがあつた。これはもう圧倒的だ。

なんてことをまたしても、いまさら、書く気になつたのは、ギターマガジンでの矢島賢の発言を読んでだ。

彼(長渕剛)は一緒にやっていて、面白かったです。こっちが全開でギターを弾いても負けないというか。全開で弾いちゃうと歌が負けちゃう人がいるんですけど。音量的ではなくエネルギー的にね。彼はキーがいいんですよ。DとかGとかギターに最適な声のレンジで、ギターを弾くには最適なアーティストですよ。

言つてることはそこまで大したことでもないが、発言者が矢島賢といふところが大事だ。矢島をしてさう言はしめてゐるところだ。

全盛期の長渕は、この矢島賢、笛吹利明、そして浜田良美といふギタリスト、コーラスが居て、成り立つてゐたと言つても過言ではない。あと瀬尾一三。

 

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【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#149 ギタリスト・矢島賢の言葉

5/15 全日本歌謡情報センター(抜粋)

 

僕はいつも自分がー番いいと思う音を出していました
『ギター・マガジン』(2013年11月号)より

『ギター・マガジン』(2013年11月号)に掲載された、矢島賢のインタビュー記事。昭和歌謡全盛期といえる1970年代の初頭から、ギタリストとして日本における大衆音楽の発展に大きく貢献した矢島という人物を、歌謡ファンにはぜひ知っていてもらいたい。そういった意味で、今回の記事がインタビューを読んでもらうための誘導となればいいと思う。矢島の祖父は、琵琶法師だったと明かされている。「音楽を受け取るのが感情なんですよね。だから感情的なギターをスタジオでも弾いていましたよ。ちょっと譜面に合わせないみたいなね」と、そのDNAに刻み込まれた音楽魂を語った。当時、制約が多かったと言われる歌謡界の中で、「自分の音を出すっていう考え方はありました?」という質問に対する答えが今回の名言である。だからこそ、矢島ならではの音色を、多くのアーティスト達が求めたのだ。