<2022.9.25再掲、音源挿入>
2022年9月25日の「松山千春 ON THE RADIO」。番組の最後に自身の「我家」をかけた。
松山千春―「我家」
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<2021.5.8記事>
<2020.5.8記事>
去年の今日、2020年5月8日に書いた記事。去年の今頃も緊急事態宣言が5月末まで延長されていた。
緊急事態宣言は5月31日まで延長された。
我が家でも「コロナの時代の現在の日常」が続く。
子どもたちはそれぞれの部屋で大学のオンライン授業を受講し、時折LINE電話で友達と大騒ぎで話している。私は自分の部屋(無理やり作られた仮の部屋)でリモート・ワークに忙しい。”動きが止まったら死ぬ”などと思ってはいないと思うが、妻はリビングを主戦場に、常に何かしている。
私は家族から積極的に自分の部屋に追いやられているため、仕事以外には、持っている松山千春や長渕剛、小田和正などのライブ映像、さらには毎日無造作に録画しているいろんな映画やドラマを観て過ごしている。CDも、何かをする時のBGMに聴きまくっている。本もストックしていたものをどんどん読了しているし、ギターも必要以上に磨いている。
ニュースにもなっていたが、我が家でも妻の旗振りで家中の物の「断捨離」を行い、先週までにひととおり終わった。すごい量の不要物(結果的に)を数回に分けて出した。私も子どもたちもそれに巻き込まれ続け筋肉痛にもなったが、気分転換にもなった。
唯一の楽しみと言ってもいい毎回の食事も、妻がよく工夫してくれて楽しい時間を過ごしている。最近では長男を酷使してプラスワンの一品を作らせている。
家族に言わせると、全員自宅に居ながらも私と接する時間が短いのが何よりの外出自粛の
好影響らしい。そんなことを言われても家族のために頑張っている自分を褒めてあげながら、ウィルスとの共存…「コロナの時代の新たな日常」をひとり思索している。
ストレスがないことはないが、この状況下ながら家族一丸となって楽しく過ごしている。東京のかたすみに灯りしかけがえのない我が家である。
松山千春著「足寄より」(昭和54年4月初版)には次のエピソードがある。
小学校4年の時、金(かね)になる十勝石があのドブ川で取れると友達から言われた少年・松山千春は、家計を助けるために泥だらけになって探したが、ないものは取れるわけがない。
騙した友達はその必死の松山千春少年を嘲笑いながら逃げて行った。
「あんときほどくやしかったことはない。(中略)あの屈辱は俺の人生のポイントだ。これが貧乏なんだよ」(同書50㌻)
お母様は出稼ぎ、自宅で小さな新聞社を営むお父様と過ごす時間が長かった。
極寒の夜、姉弟でお父様の布団に入って眠った。その時、社会の問題を子守唄替わりにお父様が話してくれたと言う。
ライブやかつてのテレビ番組で「春になると雪解け水が家の中に流れ込んでくる。家の中にいても長靴を履いて生活していた。そんな自宅を友達に見られたくなかった」(要旨)と語っている。
同「足寄より」には自宅について次のような記述がある。
「家中浸水のボロ家だけど、俺の家、一応二階建てになってた。二階はいろいろな物を置く場所、別名、ねずみの部屋。一階はおやじの新聞の仕事場と茶の間にも寝室にもなる部屋」(同書42㌻)
どんなに悔しいことや嫌なことがあっても、帰るべき我が家があり、そこには愛する家族がいた。愛情溢れた家庭があった。
どんな体験であれ、極貧の中、ふるさと足寄で家族と一緒に必死に生きた松山千春の宝の日々であり原体験だろう。
(松山千春写真集「激流」より)
松山千春「我家」(2008年)は、物理的な我が家を越え、今も生きているであろう家族の笑顔といくつものシーンを思い出しながら、そこに流れる家族愛を確かめるように歌っているのだと思う。
どんな状況であろうと、家族がいて愛情に溢れ、夢があれば
決して空しくない。
決して貧しくない。
決して不幸じゃない。
満天に輝く星々のように、家族の生命が自分の中で輝いている。
秋にコンサートが出来たとしても、ツアー・コンセプトから「我家」は歌われないと思うが、いつでもライブで聴きたいと思っている曲である。
夕暮れの街 駅前通り
我家はそこを 右に曲れば
夕暮れの街 一人で帰る
見上げた星は 光りきれない
この先この僕に 何が出来るのだろう
いくつもの不安を かかえたまま今日も
終りを告げてく さよならと
夕暮れの街 駅前通り
役場の横に 灯りし我家
貧しさというのは 愛を知らないだけ
空しさというのは 夢を持たないだけ
生命よ輝け 満天に
貧しさというのは 愛を知らないだけ
空しさというのは 夢を持たないだけ
生命よ輝け 満天に
夕暮れの街 駅前通り
役場の横に 灯りし我家 灯りし我家