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<2019.09.12>起稿

 

 

昨晩(2019年9月11日)、沖縄の友だちが「これ、松山千春の『残照』をイメージするよな」と一枚の写真を送ってきてくれた。

 

彼が撮ったもので、夕方の商店街とバス通り的な写真、停留所に停まる路線バスが写真の半分ぐらいを占める。

 

写真としてはよく撮れていると思ったが「んん?もう少し夕焼けが欲しいし、こんなにデカく路線バスが写っていたら『残照』の世界とかけ離れちゃうな」と返した。

 

彼も中高生の頃は松山千春を聴いていた。ともあれ、夕方の街を見て、松山千春の「残照」を思い出してくれたことは嬉しい。

 

「残照」

 

アルバム『浪漫』(1980年5月リリース)のB面1曲目収録。ベストアルバム『風景』にも収録されている。

 

 

松山千春が作る歌は、数曲それっぽい歌詞はあるものの、基本的なスタンスは、本人もそう発言しているとおり、社会への直接的なプロテストソングではない。

 

一昔前、とくに1960年代、「関西フォーク」と呼ばれた反戦、反権力(=プロテスト)をメッセージのメインとしたフォークソングがあったが、松山千春の歌はその意味でのフォークソングではないと思っている。

 

ツアー中で大阪公演前に自身のラジオ番組があった際に「関西フォークの流れを汲む俺が大阪で歌う」とよく言っていたが、個人的には、流れは汲んでいないと思っている。

 

松山千春が関西フォークに親しんできたことは間違いないことだが、関西フォークのあの歌の世界を松山千春の歌は受け継いでいないことは、”流れを汲む”という言葉の意味を考えても、さらには以下の本人の言葉から考えても分かる。

 

松山千春は自伝「足寄より」で自分が作る歌のスタンスについて

 

「北海道の自然やそこに生きる人間とその心、温もり、人々の生活、愛情。そうした普遍的なものを歌うことが結果的に、それを忘れかけたような現代に対するプロテストだと思っている。その意味でのフォークソングだ」(要旨)

 

と書き残している。

 

私自身は、松山千春の歌は”松山千春流のフォークソング”だと思っている。

 

 

 

(北海道・苫小牧駅/2017年10月27日筆者撮影)

 

「残照」…一番の歌詞から伝わる、家族が、温もりと安らぎが待つ自宅へと急ぐ人々の心境、生活感、足音。それを見守る、明日の晴れを約束するような夕焼け。

 

二番では、小さいことを含めれば一日の中でもいろんなことがある。決意して挑戦して破れて妥協して、そんなことの繰り返しだったとしても、いつか流され、本当に諦めて、ただ時を漫然と過ごすだけの生き方はしたくない、と歌う。

 

笑うこと、泣くこと、怒ること、苦しむこと、悩むこと…全部自分の人生。そうした感情を抱くことも、なにより生きること自体がたまらなく大好きで、この上なく愛おしい。

 

「残照」…私自身は”松山千春流フォークソング”を代表する名曲中の名曲だと思っている。

 

「残照」(公式オリジナル)

 

「残照」(ライブ音源/1985年?)

 

 

今日一日が終りだと
西の空がため息ついた
家路を急ぐ人の波
やすらぎ達がお出迎え

ささやかだから愛しくて
ささやかだから大好きで
笑う事が泣く事が悩む事が
生きる事が


夢におぼれて破れて
そんな事のくり返しでも
時計の針で心を
刻むなんて出来ないから

ささやかだから愛しくて
ささやかだから大好きで
笑う事が泣く事が悩む事が
生きる事が

ささやかだから愛しくて
ささやかだから大好きで
笑う事が泣く事が悩む事が
生きる事が

生きる事が 生きる事が

 

【撮影者】@yukio_dougouchiさん
【タイトル】夕焼け電車
【撮影日時】2019-05-06
【撮影場所】広島市中区銀山町