今年2月の父の告別式に、山梨に住む中学時代からの親友3人が駆けつけてくれた。
彼らに父の逝去を伝えた際に「わざわざ来なくていいからな」と言い添えておいたが、
「お前の親父さんの告別式に行かないなんていう選択肢はないぞ!」と、早朝に山梨を出たのだろう、本当に嬉しかった。
37年前の中学3年のあの関係のまま。あの教室のまま。
あの時の担任の先生はもう80になられる。
今日ふと先生のお顔が浮かんで、その3人のうちの一人に「先生は元気か?」聞いた。
「元気だけど、数年前脳梗塞やってから、めっきり弱ったよ。外出しなくなったらしい」と教えてくれた。近々ごあいさつに行かないといけない。
10年ほど前だっただろうか。子どもを連れて先生宅にご挨拶に行ったら、ご自身の孫のようにお相手してくださった。帰り際、ご夫妻で私たちを角を曲がるまで見送ってくださった。
生徒思いの先生で、教室で先生が私たちに残してくださった言葉の数々は今も私の指針になっている。
2013年5月14日、松山千春コンサート・ツアー2013『夢破れて尚』(@東京国際フォーラム・2日目)。一部ラストは「途上」。それに入る直前のトーク、泣いた。
中学時代の高橋勝先生がご夫妻で松山のコンサートに足を運んだそうだ。
高橋先生については、松山千春自伝『足寄より』(昭和54年初版)に次のように書いている。
「(俺=松山が)バスケットに燃えたのは、高橋勝(まさる)先生のせいもあるな。こ
れがすごくいい先生。足寄中学の体育館はすごいボロなんだよね。生徒が帰ったあと、高橋先生はボロ体育館を黙々と手入れしてるんだ。ラインなんかを引きなおして。
先生のそんな姿を見たら、この先生のためなら、死んでもやんなくっちゃっと思ったね」
(同書69㌻)
ライブでのトーク。
「高橋勝先生夫妻が来てくれた。勝先生は中学の時の恩師。俺はバスケットをやりたかったけど、うちは貧乏でどうしょうもなかったから、ジャージも買えなかった。
勝先生は『千春君、着るものがなければ私服で練習してもかまわないし、試合では学校でユニホームを用意するから頑張れ』と励ましてくれた。嬉しかった。
奥様のえいこ先生(漢字表記不明)は、高校の先生だった。コンサートが終わって、『千春君、楽しかった』と喜んでくれた。
勝先生に『千春君、ちょっと』と呼ばれた。『実は、妻は二年前から痴ほう症で、リハビリして今日のコンサートに来た。一緒にコンサートを楽しめて本当によかった。一時は、私のこともわからない状態だった。あんなに楽しそうな妻を見たのは久しぶりだよ。ありがとう』
お二人を見送った。
『勝先生、えいこ先生、今日はありがとうごさいました』と言って頭を下げた。
その頭が上げられなくなった。
『勝先生、どうか癌が転移しませんように。えいこ先生、一日でも長く勝先生のことを覚えていてください。あなたの教え子の中に、松山千春という歌を歌っている生徒がいるということを覚えていてください。
先生はあんなに凛々しかったじゃないですか。もしも神や仏がいるのなら、どうか先生ご夫妻の行く末を見守って欲しい』
そう祈っていたら、頭が上げられないほど、涙が溢れた」
「またコンサート来て、楽しい時間を過ごせますように」
と締めくくったあと、「途上」。
(トークは要旨/自身の記憶と、夢野旅人さんブログ参照)
具体的なエピソードを交えたトークが、抽象性の高い美しい言葉で綴られた歌詞の世界に見事に包まれたシーンだった。
その場で聴いていて、私の先生や教室で一緒に過ごした友達の顔が次々に浮かんだ。あの時のあいつらの声が賑やかに聞こえてきた。泣いた。
こういう時、「この会場にいて本当によかった」と心から思う。
ファンの皆さんと一緒に、松山千春と同じ空間にいて、同じ時間を過ごすことができる充たされた気持ちが湧き上がってくる。
松山は「俺の体調のことは心配せずに、東京のコンサートを楽しんでくれ」(要旨)と昨日ラジオで語った。そんなことを言われても、心配はつきない。
「病院に行かなくていいのかな?」「歌っている途中に倒れるんじゃないか…」…やっぱり心配しながら、東京公演を楽しみにしている。
「途上」
(1990年)
静かに過ぎる今日という日が
どれほど大事な一日なのか
眠れぬままに朝を迎えた
あなたに優しく語りかける
どうか どうか 振り向かないで
思いのままに歩いてほしい
あなたの道を
再びめぐり逢えることない
愛とか夢とか 心の奥に
いくつも深く きざみ込んで
誰もが遥かな旅を続け
どうか どうか 振り向かないで
思いのままに歩いてほしい
あなたの道を
思いのままに歩いてほしい
あなたの道を