松山千春著「足寄より」(昭和54年4月初版)には次のエピソードがある。
これまで2回ほどこのことを書いた。
小学校4年の時、金(かね)になる十勝石があのドブ川で取れると友達から言われた少年・松山千春は、家計を助けるために泥だらけになって探したが、ないものは取れるわけがない。
騙した友達はその必死の松山千春少年を嘲笑いながら逃げて行った。
「あんときほどくやしかったことはない。(中略)あの屈辱は俺の人生のポイントだ。これが貧乏なんだよ」(単行本 50㌻)
お母様は出稼ぎ、自宅で小さな新聞社を営むお父様と過ごす時間が長かった。
極寒の夜、姉弟でお父様の布団に入って眠った。その時、社会の問題を子守唄替わりにお父様が話してくれたと言う。
(松山千春写真集「激流」より)
松山はライブやかつてのテレビ番組で「春になると雪解け水が家の中に流れ込んでくる。家の中にいても長靴を履いて生活していた。そんな自宅を友達に見られたくなかった」(要旨)と語っている。
同「足寄より」には自宅について次のような記述がある。
「家中浸水のボロ家だけど、俺の家、一応二階建てになってた。二階はいろいろな物を置く場所、別名、ねずみの部屋。一階はおやじの新聞の仕事場と茶の間にも寝室にもなる部屋」(同 42㌻)
どんなに悔しいことがあっても、帰るべき我家があり、そこには愛する家族がいた。愛情溢れた家庭があった。
どんな体験であれ、極貧の中、ふるさと足寄で家族と一緒に必死に生きた松山の宝のような日々であり原体験だと思う。
私の父の遺品を確認していたら、昔のアルバムが出てきた。そこには、父と母、母と私、母と妹で、一緒に同じ日時に撮影した写真が貼られていた。
撮影場所は今はもうない、自宅の入口。
撮影年月日は1988年1月2日。そこから約3カ月後、母は逝去する。
医師から「この年末年始は一時帰宅されて結構です。ただ、これが最後の年末年始になると思います」と言われた。
1987年の12月末、母は自宅に帰り年を越し、1988年、新年を迎えた。
自宅をバックに、母と一緒に順番に写真を撮った。
当然ながら母は痩せやつれていたが、家族で撮った宝のような最後の写真だった。
小学校からの帰り道、大きな神社の境内を抜けると、我が家の前を走る道に出る。そこで一緒に帰ってきた2人の友達とは別れる。ひとりでその道を300㍍ほど歩くと、左側に我が家はあった。
父と母に守られ過ごしたあの頃のシーンは今もはっきりと覚えている。
あの父と母と妹の話す声、笑い声は今もクリアに聞こえてくる。
(松山千春写真集「激流」より)
松山千春「我家」(2008年)は、物理的な我家を越え、そこに今も生きているであろう家族の笑顔といくつものシーンを思い出しながら、俯瞰するように歌ったのだろう。
どんな状況であろうと、家族がいて愛情に溢れ、夢があれば
決して空しくない。
決して貧しくない。
決して不幸じゃない。
満天に輝く星々のように、家族の生命が自分の中で輝いている。
ライブで聴ける日が楽しみである。
元気で、歌い続けて欲しい。
夕暮れの街 駅前通り
我家はそこを 右に曲れば
夕暮れの街 一人で帰る
見上げた星は 光りきれない
この先この僕に 何が出来るのだろう
いくつもの不安を かかえたまま今日も
終りを告げてく さよならと
夕暮れの街 駅前通り
役場の横に 灯りし我家
貧しさというのは 愛を知らないだけ
空しさというのは 夢を持たないだけ
生命よ輝け 満天に
貧しさというのは 愛を知らないだけ
空しさというのは 夢を持たないだけ
生命よ輝け 満天に
夕暮れの街 駅前通り
役場の横に 灯りし我家 灯りし我家