文豪・山本周五郎は短編においてもその文才を発揮して、読む人の心を揺さぶる作品を多数残した。
作品が最初に発表されたのは昭和15年、昭和47年に文庫本初版(新潮文庫)が発刊された『ひとごろし』。タイトル作の「ひとごろし」、人間性善説を前提として、社会に問題提起した「裏の木戸はあいている」など10の短編で成っている。
その冒頭の短編「壺」。
百姓の青年・七郎次が武士である又右衛門に、武士になるために刀法伝授を願い出る。
七郎次は又右衛門に弟子入りして半年。ようやくその方法を教えられた。
「あの丘の上にある杉の木の根元のどこかに、壺が埋まっている。その壺の中に刀法伝授の一巻の書がある」(要旨)
七郎次が掘っても掘っても壺は出て来ない。鬼の形相でさらに土を掘り返す七郎次に向かって又右衛門が言った。
「七郎次、お前はそれなんだ…」(同書27㌻)
「おまえは壺を捜すために土を掘り返している。それなら掘り返しさえすればよい筈だ、なんのために草を抜き捨てるのか」(同)
「草だけではない、おまえはひと鍬おこす毎に瓦礫まで選りだして遠くへ投げ捨てていた、(中略)みろ、七郎次、おまえの掘り返した土地は畑のようになっている、…これはいったいなんのためだ」(27~28㌻)
又右衛門は続ける。
「おえの目的は壺を捜すことにあった、それなのに掘り返した土から草や瓦礫を拾い捨てた、自分では気づかず、しかもまったく目的には無要なことなのに、…なぜだろう、ひとくちに云えばおまえが百姓だからだ。心がその道に達していれば意識せずとも肉躰は必要な方向へ動く、剣をとろうと鍬をとろうと、求める道の極意はその一点よりほかにはないのだ、…妄執を捨てろ七郎次、おまえにはおまえ本来の道がある筈だ」(30㌻)
「人間のねうちは身分によって定(き)まるものではない、各自その生きる道に奉ずる心、おのれのためではなく生きる道のために、心身をあげて奉る心、その心が人間のねうちを決定するのだ」(31㌻)
七郎次は改心して言った。
「…剣をとろうと、鍬をとろうと、求める道の極意は一つとの仰せ、しんじつ胆に銘じました、この御おしえを子まごに伝えてまいりたいと存じます」(同)
七郎次にとって壺を掘り当てることは、自分の使命の道に目覚めることであった。
物としての壺はなかったが、本来の壺はあったのである。
多少のニュアンスの違いはあるが…。
松山千春の楽曲の中で、私が思う「それぞれの道」にちなんだ歌は「空を飛ぶ鳥のように 野を駆ける風のように」「夢の旅人」「途上」「道」「ひまわり」…。
紆余曲折はあっても「自分が生きる道」を自覚し、その道で生きることを決意する、決意を促す歌は「この道寄り道廻り道」「自分らしく」「まだまだ」「生きております」「歩き出してくれないか」…。
「そして今日も生きております なんて楽しい人生なのか」(生きております)
【撮影】田中一豊さん
【タイトル】晩夏の十勝平野
【撮影日時】2017-08-23
【撮影場所】北海道とかち