ヴィクトル・ユゴー「レ・ミゼラブル」、学生時代に読んで以来の、再読了。

今回は永山篤一氏訳(角川文庫)のもの。

 

下巻の「訳者あとがき」にあるとおり、時代を超えて残る世界の古典名作は、とかく読みにくい。文語調で書かれているなどいくつか理由はあるが、多くは物語のメインストーリーから横道に逸れた話題が長く、また一、二語で説明がつくものを、回りくどく多くの言葉で説明する記述が見受けられる。結局、なかなか本筋に戻ってこないことがその一番の理由だろう。

 

その読みにくさを克服すべく、過剰な部分をそぎ落とし、物語の根幹部分と本質だけを残すことに挑戦したのがハーバード大学のポール・ペニシュー氏である。氏はそうした目的と手法で「レ・ミゼラブル」を英訳し、それを翻訳したのが永山氏であり、本書である。

 

物語のクライマックスは、1832年6月5日から6日にかけてパリで発生した「六月暴動」を描くシーン。パリ市民による王政打倒の暴動の様子を細かく描写している。

 

その暴動の意味を綴る。

 

「進歩とは、人間の存在意義である。人間のすべての生活は”進歩”と呼ばれる。集団的な歩みもまた”進歩”と呼ばれる。進歩は先へと向かう。(中略)つねに穏やかなどということは、川と同じで進歩についてもありえない。(中略)混乱が起きる。

でも、そんな混乱のあとでも、前進しているのがわかる。(中略)ここまで語ってきた物語のような戦いは、理想をめざしているための苦闘である。進歩が邪魔されるとそれはよどみ、悲劇的な痙攣のような状況が生まれてしまうのだ」 (下巻293㌻)

 

集団や社会が進歩するためには、必ず混乱や障害が現れる。それを乗り越えてこそ、より大きな進歩を刻む。

 

ユゴーは続ける。

 

「内戦という進歩を冒す病に、われわれは人生の途中で遭遇しなければならない運命を背負っていた。だから、社会から糾弾された主人公を軸にした、進歩を本当の主題とするこの物語には、こういう内戦場面はどうしても必要な場面で、山場として描かれることになった」

(下巻296㌻)

 

そうした社会の進歩と内戦を人間の次元にまで落とし込み、人間が進歩、成長するためにはどうしても苦難が必要であると主張する。

 

この暴動を綴り終えた後の物語は、登場人物たちの人生における山場を描く。

ジャン・ヴァルジャン、ジャヴェール、コゼット、マリウス、テナルディエの人生がどう展開していくか、本来の主題を描ききって、この物語が終わる。

 

この部分を読めば、ここまで長い物語を読み続けてきてよかったと、意味を見出す。

 

主人公たちの内面の変革の描写。言ってみれば、人間革命の様。

 

ここに「レ・ミゼラブル」が世界的な名作として今なお読み継がれ、映画やミュージカルなど別の方法でも表現され続けている理由があるのだろう。