長渕剛アルバム『ふざけんじゃねぇ』(1997年9月リリース)。

 

松山千春のアルバム『挫折』(1992年)というタイトルにもびっくりしたが、長渕までも「ふざけんじゃねぇ」。

 

ふざけて付けたのではないことは分かる。これまた長渕剛、世間や周囲の人々に喧嘩を売るような曲ばかりが並んでいるような気がして、ハラハラしながら聴いた。

 

その手のものは9曲目のタイトル曲だけで(あえて言えば3曲目「英二」か)、あとはむしろ優しさ溢れる曲が並ぶ。いい意味で長渕の肩の力が抜けたかのような、円い曲たちである。

 

このツアーは横浜アリーナ。初めてアリーナ前方よりの中盤だったが、最初から最後まで周囲は立ちっぱなしで、長渕がまったく見えずに終わった。全曲ラジオ・CD状態。

 

自分で席を選べないが、この時以来、長渕のライブは絶対にスタンド席だと固く決めた。

 

同アルバムの1曲目「いのち」

歌詞で歌われている具体的な過去の行状はともあれ、過去の自分をすべて消し去りたいような衝動に駆られているであろう気持ちは、痛いほど分かる。

 

よく言えば、必死さ、ひたむきさ、勢い。

今思うと、荒さ、未熟さ、分かってなさ、周囲を蹴散らすような生き方…過去の自分をたたきつぶしたくなる。

 

どうあがいても、そういう自分もまた自分であり、消し去ろうとしても、逃げ出そうとしても無理な話。

 

幾つもの辛酸をなめ、それを乗り越えてこそ細やかな風に泣くことができる。優しくなれる。

 

良い面も悪い面も常に備えている自分自身の命。

その命を使って、この一生、自分はどう生きるのか。

 

「使命」は誰彼から与えられるものではなく、自分で切り開いていくものなのだろう。

せめて自分が進む道の途上では、出会う人々のために、世間のために、生きたい。

 

苦労の末に、肩の力が抜けおおらかになる。

そのうえで、やっぱりがむしゃらに前を向いて、希望にかじりつくように生きていたい。

 

 

 

 

 

雨が降っていた
どしゃぶりの晩 ぬれた地べたに
傘を突っ立てた

しゃくり上げた瞬間
喉をかっ斬り悔しさを幾度も
タバコの火で焼っきった

海になりてぇ 激しくうねり狂うほど
海になりてぇ あれは確か俺、19の冬だった

中途半端の親切よりもっとしゃにむに生きた
中途半端の慰めなどに

振り向かず走り抜く命が好きだった


風が言葉になった
吹きっさらしの言葉から
心という響き探した

うら優しい母の愛より
物言わぬ親父の背中に
甘え抱かれたかった

正義に倒れ死んでいった者達の墓の上に
こっそりつばを吐き弱者を気取る大馬鹿野郎

刑務所(ムショ)も娑婆(シャバ)も流れる水は

やっぱり同んなじだった
うら寂しい人情の陰の

荒くれた厳しい命が好きだった


道は後ろにあった
過去という名の貧弱な俺の
足跡があった

逃げても追いかけた
逃げる自分を許さぬ
もう一人の俺が

強い者ほど細やかな風に泣き
みっともないくらいの恥を誇りに思うものだ

すたれて貧しくたかるよな大胆不敵より
乱拍子で脈打ちながら

希望へかじりつく命が好きだった

すたれて貧しくたかるよな大胆不敵より
乱拍子で脈打ちながら

希望へかじりつく命が好きだった