吉川英治の「新・平家物語」には、氏が設定した架空の人物、麻鳥(あさとり)と蓬(よもぎ)夫妻が全編を通して登場する。
壮大な物語の語り部として、世の争乱、人間と一族の栄枯盛衰を時に一歩引いたところから見つめ、時に庶民目線で物語の真ん中に入り込み、いい働きをする。
16巻を費やし争乱と栄枯盛衰を描いたこの物語の最後は、夫妻の会話で終わる。
夫妻は、奈良の吉野の山に桜を見にやってきた。
麻鳥の方こそ、じつは、この吉野へ来たら、老いたる妻へ、いちどは、男の本音として
「よく、わしみたいな男に」
と、礼やら詫びを、いおうと考えていたのである。吉野の花を見せるよりは、ほんとの気持ちはそれだった。(中略) わがままな男の意志へ、なんのかのとはいっても、よくついて来てくれた妻へ、かれは、あらためて、
「…………」
何かいってやりたい。
けれど、そうした男の胸のものを、こっくり、いい現わせることばなどは、見つからなかった。真情とは、そんな簡単に、出して見せられるものではなかった。―だから、さっきから、黙っていた。が、蓬には、良人のそうした気もちは充分なほど分かっていた。
(同書 418㌻)
夫妻の会話は我が子・麻丸のことになる。
蓬が言う。
「それにしても、医師のあなたの子が、生涯、手を真っ黒けにして、染屋の紺搔き男(こんかきおとこ)なぞで終わったら、世間も笑うじゃありませんか」
「ばかをおいい」
つい麻鳥は、口癖で、しかってしまった。
「笑う世間の方がおかしい。なぜ紺搔き男では、恥ずかしいのかい」(中略)
「だからといって、おまえもだが、何を世間へ恥じるのか。まじめで、そしてよく働く一個の紺搔き男と、もう亡きお方だが、頼朝どのや、梶原などどいう者と較べても、人としてどこに負(ひ)け目がある?(中略)
……結構だ。あれで結構。― 人おのおのの天分と、それの一生が世間で果たす、職やら使命の違いはどうも是非がない。が、その職になり切っている者は、すべて立派だ。なんの、人間として変わりがあろう。……あれもな、蓬」
「……はい」
「どうか、達者に働いてくれて、小さくても家をもち、よい女房でも娶って、やがて、わしとおまえのきょうのような一日でも老後に見ることができたら、それで申しぶんないではないか」
(同 420~421㌻)
自分がいまいるところで、必死に生き、使命を果たす。そこにこそ「人間の尊厳」がある。
人間に尊卑貴賤があるわけがない。
ひとりひとりがひたむきに生きることができる社会を作るために、憎悪と復讐の連鎖を止めて、平和な社会を作らなければならない。
重複するが、16巻を費やし、世の争乱、人間と一族の栄枯盛衰を描いた物語のラストシーンが、吉野の桜を眺めながらの庶民の老夫婦の会話である。
この設定自体に、時代を超えて伝わる吉川英治のメッセージがあるのだろう。