昨日(2018年8月26日)の「松山千春 ON THE RADIO」で松山千春が亡き恩人である竹田健二さんのことを語った。

 

「1977年8月27日、明日が、俺をこの世界に引っ張り込んでくれた元STVのディレクターであった竹田健二さんの命日です。

 

常に思うことは、“俺のどこがよくて、竹田さんは引っ張ってくれたのか“。それと毎回毎回コンサート、全国回っていて、”竹田さん、沖縄の人も、四国の人も九州の人も、大阪、名古屋、東京、仙台…今でも拍手くれるんですよ。俺、間違ってないですよね?フォークシンガーとしてちゃんと歌ってきてますよね”、ということをつくづく感じさせられる日がやってきます。


(デビュー前後)”北海道から俺、出たくないですからね”と言った。(竹田さんは)その約束を守ってくれた。本当に有り難い」 (松山の発言趣旨を変えずに語尾等一部修正、加筆箇所あり( )は筆者)

 

いつも心から思う。何歳になってもどんな立場になっても、自分を世に出してくれた恩人を絶対に忘れない松山千春の姿勢は本当に立派で、人間として大いに学ぶべき点だと。

いつも、竹田健二さんという恩師に育てられた松山千春のまま。師匠・竹田健二さんに育てられた弟子・松山千春のままなのである。

 

決して弟子としての分を越えることなく、弟子として師匠を高めるために頑張り続ける。



 

松山の恩師の竹田さんが逝去されたのは昭和52年(1977年)8月27日。

昨日のラジオのトークを聴きながら…。逝去の前日、竹田健二さんと松山千春はどういう会話をしたのか?

自伝「足寄より」には
 

室蘭のあと、俺は一度足寄に帰って、二十六日に札幌に出てきた。着くとすぐ竹田さんに電話をいれた。八月八日以来、コンサートにきてくれなかった。いそがしかったから、竹田さん。
 「これからニッポン放送の人とキャニオン・レコードの人と会う。明日は俺もなんとかいっしょに函館に行けるから、午前十時にSTVにきてくれ。そこで待ち合わせよう」
 竹田さんの声は元気だった。そして、こう続けた。
「”オールナイト・ニッポン”の話がきているんだ。ラジオはまえの個性が表現できる媒体だ。やってみてもいいんじゃないかな。ま、明日ゆっくり話そう」


これが竹田さんとの最後の会話となった。翌朝STVラジオに行った松山千春は竹田健二さん急逝の報を守衛の人から聞いた。
 

竹田健二さんの亡骸は自宅にあり、そこに松山千春は急行した。しかしお顔を見ることができなかった。見てしまえば、まぎれもなく竹田さんが亡くなられた事実を突き付られるから。

そして松山千春は白い布をかけた竹田さんを見て言う。

 「じゃ竹田さん、俺、コンサートに行ってくるから」

敢えて最後の会話と言えば、この松山千春の言葉になるのだろう。

「足寄より」はさらに続く。

 

「千春、めし食ってるか?」
「千春、声の調子はどうだ?」
「千春、金あんのか?」
竹田さんの口癖が聞こえてくるような気がした。


そしてこの『恩人 竹田さん急逝』の章は次のくだりで終わっている。

 

もう竹田さんはいない。俺を導いてくれた人はいない。俺はこれからひとりで歩いていかなくちゃならないんだ。ほんとうの旅立ちはこれからだ。そう思った。
ただ、いまでも竹田さんを、この俺が殺したような気がしてならない。

 

恩師・竹田健二さんが亡くなられて、今日でまる41年(2018年時点)。