今日(5/25)、日本大学の大塚学長が、一連の問題に対する緊急記者会見を行った。
リアルタイムで全部見ていたが、掴み所のない、核心が見えない中途半端な会見だった。
テレビ朝日記者がその核心について質問した。
(記者)「あくまで、監督と選手の間の指示の解釈の食い違いという認識は変えないこというで
しょうか」
(学長)「今の若い世代とのコミュニケーションはなかなか難しい。世代間の理解も違ってい
る。詳しい事実は今第三者委員会が立ち上がったところなので、その調査を待つ。それ
までは私からコメントはできない」
大学を代表して学長が出てきてはいるが、決して問題の中心点にいる人間ではないだろう。この学長さえも「解釈を間違えた学生の問題」と捉えているムードを、おそらく多くの視聴者、現場の記者は感じただろう。
仮にそうした解釈の違いがあったとしても、学生に誤った解釈をさせてしまった指導者の指示伝達のまずさをお詫びし、学生には何ら責任はない、すべては自分の責任だ。批判は私ひとりが受ける、と言えない精神性の貧しさ、心の小ささ。愛情のなさ。
どんなことがあっても自分だけは子どもを守るのが親だ。学生を守るのが大学だ。
アメフト部の父母会、教職員組合、他クラブ団体の保護者、当の学生たち・・・良識ある日大の関係者が動き始めている。あのような執行部のスタンスが通るほど社会はあまくはないだろう。
この問題のもっと深いところにある同大学執行部の体質、モラル、そうしたところまで社会の手が入るだろう。入って欲しいと願う。
時はただ 穏やかな
微笑みを 投げかけて
追いかけて 行くよりは
流されて みることさ
うまくいくこともある
踏みはずすこともある
唇をかみしめて
立ち止まることもある
君一人特別に
ついてないわけじゃない
誰だって似たような
人生を歩いてる
(松山千春「憂い」二番のみ)
歌詞とメロディとアレンジ、松山の歌唱がほんとうによくマッチしている。こういう曲は極力バックの音は少ないほうがよいと思う。
何回かライブで聴いてきたが、1997年松山千春初の横浜アリーナでのライブ、本編最後のそれが一番よかった。
私が書くまでもない。
人生には、うまくいくこともあれば、失敗することもある。ひょっとしたら自分が考えていた道を踏みはずしてしまった、と思うときもあるかもしれない。
そんな時、唇を噛みしてただ耐えるだけの場合がある。周りはどんどん進んでいく。
そしてそういう状況に置かれると、苦しいのは自分だけで、しかもこの悪い状況が今後ずっと続いていくように思い込んでしまう。そう思うことでまた自分を追い詰める。
でも大丈夫。君だけがそうなんじゃない。みんな同じような人生を歩んでいる。
何より、この宇宙のリズムのなかで、同じところに留まるものは何一つない。
すべてが動いている。変わっていく。
だから絶対に諦めないで、今は一見その苦境と思われるところで、”過ごして欲しい”。
無理に意味を捉えようとしたり、そこから抜け出そうと焦る必要はない。そうしようとしても、実際には心が傷ついているから、すぐにはそうは動けない。だから、”過ごして欲しい”。
じたばたせずに、温泉にでもつかるように、ゆったりと過ごす。心は3ヶ月~半年ぐらいでまたもと通り再生されてくる。元気になれば、またいつものあなたの良さを存分に発揮できる。
そしてあなたをみなが守ってくれる。
そして数年経って振り返ると、あの遠回り、立ち止まったように見えていたことが、全部今の自分を作るための栄養だったと分かる時が必ずくる。
恩師は教えてくださった。
「今自殺するほど苦しいことに直面することがあっても、決して死んではいけない。あと数年経って今の苦境を見たら、”大したことはなかったな”と思うことばかりだ。今はじっと耐えればいい」
「時はただ穏やかな微笑みを投げかけて」と松山が歌うそのとおり。
恩師の言葉も、一歩深く捉えれば「時の力」への信頼である。
「時」は厳しい面を見せる時がある。しかしやっぱり「時」は優しい。「時」は大きな包容力を持っている。穏やかな微笑みをたたえている。
「憂い」を「時」が大きく包み込み、全部自分の「栄養」に変えてくれる。