昨日(4月15日)は一年ぶりに故郷の山梨、甲府で仕事だった。

生まれ育った所に行くことだけで、嬉しくなる。

 

「ねえ帰ろう 青い空の中へ ねえ帰ろう 僕の心は

ふるさとへ ふるさとへ」     (松山千春「帰ろう」)

 

「だけどこれ以上心に嘘はつけない

帰るんだ 帰るんだ まだ寒い北国へ

弱い男と 呼ばれてもかまいはしない」  

 (松山千春「帰ろうか」)

 

「忘れかけた 僕の笑顔 もうすぐ帰る 僕のふるさと」

(松山千春「帰郷」)

 

私の中にシリアスな望郷の念はない。ただ故郷に行けることが嬉しい。

 

 

先月、高校時代の友人からLINEが来た。「久し振りに飲もうぜ」という誘い。

久し振りも久し振り。高校3年の時同じクラスで仲がよかった友だちだが、高校卒業以来ゆっくり会っていないので、32年振りだ。

 

で、仕事が終わった後、もうひとり同じクラスだった友だちも誘って甲府で3人で飲んだ。

気が利いた待ち合わせ場所などない。甲府駅南口「武田信玄」像前!

 

 

何せ32年振りなので、彼らの風貌がどんなものか分からない。髪の毛もなくなっていたり、お体が当時の二倍ぐらいあったら分からないなあ、どうしようと思ったら、いました。

すぐに分かった(*^o^*)。

 

18歳のあの当時と変わっていない。「お前もまったく変わってないな」と言われた。

(実際にはもっとこってりした甲州弁で)

 

一人が高校の卒業アルバムまで持参した。クラスや空手部の仲間たちとのショット、恥ずかしい。懐かしい。この段階で18歳の自分に会いたくはなかった苦笑いきゃぁ~

 

延々4時間、32年の歳月をあっという間に超えて、話して呑んで、本当に楽しく嬉しい有り難い時間だった。別の友だちたちの消息も分かった。人は石垣、人は城、情けは味方、友は宝だ。

 

みな50歳になった。

私が「人生100年時代、ちょうど折り返しだな」と言うと、友だちは「バカ、平均年齢82歳、もう6割以上来たぞ」と言う。 (甲州弁では、なぜか冒頭に”バカ”~と付ける場合がある爆  笑

話していて、自分の中から方言が再生されるのが自分でも怖かった。にっしっし

 

あの時の仲間たちで山梨から出ている友達は数えるぐらい。ほとんどが山梨県内で生活している。私は山梨の実家を引き払った関係で、帰る家がなくなったため、山梨に帰る機会がめっきり減った。

 

大学入学と同時に山梨を離れて32年。故郷未だ忘れ難く捨て難い。

しかし東京に出たことで私の人生が大きく開けたと実感している。

 

あれから必死に生き、戦ってきて50を迎えた。

恩師は「人生の本当の勝負は50代からだ」と教えてくださった。

まさに今、伸るか反るかの際に立つ。

 

ここで踏ん張ればまた大きく開ける。投げ出せばそれまで。

それなりに生きていけると思うが、どこか諦めたような日々は送りたくはない。

 

「帰りたいね すぐにも あふれる思い 

丘に登り見下ろす あの町並みは

都会に夢を 求めた頃と 

少しも変わらず ひなびたままか

振り向いたなら 幼い日の私が

ひとりたたずむ」     (松山千春「望郷」)

 

「瞳を閉じれば 鮮やかに 浮かぶ景色の 愛しさよ

なりふりかまわず あとわずか ためしてみたく 思います

穏やかに 健やかに お暮し下さい 父母よ」 

 (松山千春「手紙」)

 

「都会の隅に生きてます 疲れたなどと言えません

せめての願い ふるさと慕えば 穏やかな空 変わりなき山」

(松山千春「慕う」)

 

デビュー当時、松山の望郷の念を歌った曲は、とにかく故郷に帰りたいという一方向のベクトルが多かった。もしろん底意には、自分の歌を人びとに社会に伝えるために負けてたまるかという気持ちがあったと思っている。

 

しかし後年、故郷や家族を慕いながらも、今いるところ~それが歌詞の中では東京だったり都会の街だったりするかもしれないが~で歯を食いしばり頑張ろうとする決意が静かにしかし確かに伝わってくる。

 

今いるこの場所で、自分が決めた道のために頑張っていきたい。自分が頑張ることで恩師や家族、縁した方々を高めて生きたい―いつもそう思っている。