松山千春ファンの広大かつ豊饒なアゴラを形成する夢野旅人さんが、松山千春「平凡」について次のように書いている。
自分がその立場や境遇になったとき、挫折や絶望に直面して初めて共感できる松山千春の唄がある。 (2015年10月23日(金) 松山千春『平凡』に思うこと)
このコメントにとても共感する。経験して初めて、それまで松山千春が出していた楽曲の中で、一気に自分自身に迫ってくるものがある。
もちろんそれは松山千春の楽曲に限らずとも、私で言えば以前恩師に教えていただいた言葉だったり、過去に読んだ本の一説だったりする。
結局のところその人が経験したことでしか、人はその本質やその時の心境を感じ得ない。
経験した数だけ、人の気持ちが分かるようになるものだ。
今車中でこれまた本当に久し振りに松山千春アルバム「夏の終わりに」を聴いている。
改めて、この頃の歌唱力、声の艶、伸びはまた一段上のレベルに行っていたなぁと感心するし、落ち着いた心境でこのアルバムを作った松山千春を想像する。
その中で「平凡」がやけに響いた。きっと松山の心境が落ち着きを取り戻し、ゆったりと構えられ始めた頃の心境だろうか。平凡な歌だけど、松山フォークの中で重鎮的な一曲だと思う。
幸不幸など考える暇なく突っ走ってきた。それはとりもなおさず充実し悔いない日々を重ねていたということだ。
褒められたいと思って何かをしたことはない。ただ全力で、実現したいそのことのためだけに、人びとのためだけに走ってきた。
途中悔しいこと、哀しいこと、寂しく感じたことは無数にあった。今もある。いつもある。不可抗力的に降りかかってくることだってある。足元をすくわれたことも幾度となく。
落ち込んだ。力が抜けた。
しかしだからと言って誰かを恨んだことはない。その恨んでいる時間さえもったいない。
とにかく諦めない、投げ出さない。
自分の感覚、スケールを他人に当てはめがちだが、問題が起こる時はいつも原因はそこにある。自分が正義と思うことでも他人はそう思わないことの方が多い。またある程度時間を置いてみたら、自分のそれが違っていたことだってある。
皆それぞれの人生を必死に生きている。それを認め合い共感し合うことが大切だと、やっとこの歳になって分かってきた。
いろいろあるが、今こうして生きて、働いている。それ自体がなかなかないこと、有ることが難し、つまり”有り難い”ことだとよく分かるようになってきた。
何もないことが「平凡」だとは思わない。生きてくうえで何もないことはないだろう。でも、一日の終わりに、出会った人たちに、過ごした時間に「ありがとう」と言えるその心境こそが「平凡」であることの一番の価値なのかもしれない。
幸せだとか 不幸せとか 感じる暇などなかった
ただ毎日を恥ることなく 自分なりに歩いてきた
ほめられる様なことはないけど 馬鹿にされることもないさ
守れるものはすべて守った まちがいとは思わないさ
平凡だけど穏やかな この一日の終わりに
「ありがとう」って心から 「ありがとう」っていえるから
寂しいだとか 悔しいだとか そんな時も もちろんある
何にぶつける 誰にぶつける 投げ出さずに歩いてきた
楽しいだけの人生ならば それはそれでいいのだろう
人それぞれの生き方があり 素直に受けとめられたら
平凡だけど穏やかな この一日の終わりに
「ありがとう」って心から 「ありがとう」っていえるから
幸せだとか 不幸せとか 感じる暇などなかった
ただ毎日を恥ることなく 自分なりに歩いてきた